劇場版アニメ「GODZILLA」三部作の最終章、20,000年後の地球を舞台に、僅かに生き残った人類と地球上の生物の覇王となったゴジラとの対決を描いた作品。
前作は、現在でも研究されている最新テクノロジー「ナノマシン」を駆使した武装要塞都市「メカゴジラ・シティ」をモチーフに、「化学的な人類の進化」の行方を扱っていたところがSF的に面白かった。
そして、本作では「宗教による人類の救済」がテーマになっているところが面白い。
宗教の指導者が人々に教理を説く展開を見ていると、その過程に説得力がありました。
「カルト的な宗教に、なぜ人は惹きつけられるのか?」という理由を客観的な視点から描いていて、鸚鵡やヱホバの商人が如何にしてカモをひっかけているのか?がわかります。
地球上の生物を破滅させたゴジラが全く太刀打ちできない、物理の法則を嘲笑うような「ギドラ」の攻撃は予想外で、その後の展開がどうなるのか?と画面に食いつくばかりに見てました!
そういうところは、面白かった…んですが。
ストーリーを、登場人物のセリフで説明したり進行させるところが多すぎる。
良く言えば知的、悪く言えば難解な用語を並べ立てて観客を煙に巻くのは、最近のアニメ作品の悪癖。
セリフだけで高揚感を煽って場面を盛り上げるのならば、「映画」でなくていいと思うんですよね。
せっかくの迫力ある映像も、セリフ無しで見ていたら意味が分からなくなってしまうような演出は、いかがなものか?
「科学」や「宗教」の哲学的なテーマを大きく広げた風呂敷に載っけたまんま、畳まずに放ったらかしにしたような作品のラストシーンには呆然となったとですのよ…。
この作品の足を引っ張って奈落の底まで落っことしたのは、「脚本」の一言に尽きる…。
「絶望」の意味が分かっていない。
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