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2018年09月01日08:21

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九度山

 先日、九度山の「真田ミュージアム」に行った。本当は、3年前の「真田丸」放映中に行きたかったのだが、何だかんだで延び延びになっていたのである。ここは、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成方に属していた真田昌幸、幸村(信繁)父子が蟄居を命ぜられた地。高野山のふもとの集落で、その当時はかなり不便な地であったのだろう。家康にしてみれば、さんざん煮え湯を飲まされた相手。家康の家臣となった信之の助命は受け入れたものの、二度と再び表舞台に出てきてほしくない相手だったに違いない。
 父、真幸はそこで失意のまま六五年の生涯を閉じるが、幸村は、大阪城の秀頼の誘いに応じ、ひそかに九度山を抜け、大阪城に入って家康を迎え撃ち、要塞「真田丸」を築いて家康軍をさんざんに打ち破った。だが、家康の謀略で豊臣方は外堀を埋められ「真田丸」も取り壊されてしまう。もし、真幸が存命で、豊臣方の総大将を務めていたなら、歴史が変わったかもしれない。
 そこで、ふと、幕末の薩長連合と幕府軍の闘いと重なって見えた。鳥羽伏見の戦いで、もし、徳川慶喜が先頭に立って鼓舞していれば、ひょっとしたらひょっとしていたかもしれない。でも史実は「錦の御旗」に怯んだ慶喜が、会津や新撰組を見捨てて江戸に逃げてしまい、幕府軍は総崩れになってしまった。そんな中で、新選組は最後まで戦い、近藤勇は上野の闘いのあと処刑されたが、斎藤一は会津戦争、土方歳三は函館戦争まで戦い続けた。結局は敗れはしたが、彼等は武士の矜持をのちの世まで示したといえよう。
 時代の大きな流れに流されつつ、自らの「正義」を貫こうとしたあたり、真田父子と共通するものがあった、と思う。
 そしてその、[時代の大きな流れ]が、必ずしも、「正しい」かどうか…は、疑問が残るものだなあ…と思うのである。
 少なくとも家康は、その後二五〇年にわたる平和の礎を築いたのは確かだと思う。
 一方、薩長の明治維新は…確かに欧米に追い付け追い越せ、富国強兵で世界に稀に見る近代化を成し遂げはしたが、日清日露に始まり、満州事変、日中戦争…太平洋戦争…そして敗戦…と、家康が築いた平和とは逆の道をたどってしまったのかもしれない。
 さて、今の日本は、どこに向かっていくのだろうか…?
 と、まあ、柄にもなく、そんなことを考えている。
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