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2018年08月18日16:28

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東京新聞「語り継ぐ」のコーナーに応募しました。

東京新聞が敗戦企画として「語り継ぐ」というコーナーを設けて戦争体験を募集していることを締め切り当日に知り、慌てて子どもとしての体験談を投稿してみました。
電話で確認してきた係の人の話しでは、珍しく子ども目線での話しに編集が目を付けて18日掲載を決めたそうです。文字数制限があって、舌足らずの部分もあり、充分思いを書ききれないもどかしさもありますが、マイミクさんの声に押されて日記に載せてみました。宜しくご笑読の程お願いします。
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昭和18年国民学校三年生の3月に母親の実家へ縁故疎開することになった。満8歳。親の決断で兄二人を残し、末っ子の私一人で潮来まで行くことにした。親が用意した切符と5円札二枚を握りしめ、親に見送られて両国駅から汽車に乗った。母の実家での疎開生活が始まった。楽しい事もあったが、辛い事の記憶の方が多い。当たり前だ。それから1年、下町の実家は空襲で焼失し一家は八王子の在の畑の中の借家へ。わたしも潮来から呼び戻された。父親と次兄は軍事工場へ、長兄は予科練で、昭和20年8月1日の夜の空襲の時に家にいたのは10歳のわたしと母親の二人だけだった。深夜近く、空襲を避けて手掘りの防空壕の中で大家さん夫妻とわたしと母の4人でうずくまっていた。ムカデとゲジゲジが怖かったが間もなくB29の轟音と共に焼夷弾の雨が降ってきた。家に一発命中したが母と二人で必死に消し止めた。軍事工場化した近くの中学校が標的に。それから半月後に敗戦の玉音放送を聞いた。
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