当時の記憶を手繰り寄せていると、大人になってから再会した淳子と私の会話がふいに蘇ってくる。
「あたしたちは遊びの中でも、迷路がとりわけ大好きだったわね」と淳子。
「そうだね、藁半紙によく迷路を書いて、一緒に競争したね」と私。
「何であんなに迷路が大好きだったか考えてみたことある?」
「謎解きがお互い大好きだったから?」
「そうね、でも、謎を解くのが好きだったんじゃなくて、謎そのものが大好きだったのよ。迷路も抜け出すよりも、迷路そのものが大好きだった。あたしたちは、謎そのものであり、迷路の中に棲むミノタウロスそのものなのよ。そう考える方が自然だと思わない?」
今でも、私は古い造りの洋服タンスを見てしまうと、脳裏に電撃が走り、痙攣的な記憶と幻覚が入り混じって目の前に現れてくるのを覚える。あの洋服タンスが不気味なほど迫って、扉が片方だけ開いて、そこから真っ白な腕が蛇のように這い出て、こちらに向かってオイデオイデをするのだ。頭痛がしてくる。こめかみが激しく震動する。どろりと耳の穴から何かが出てくる。温かいものだ。蛇だ。頭の中でとぐろを巻いていた蛇・・・脳みそだ。そいつは、シュッシュッと鳴きながら、闇の中へ這っていってしまう・・・闇の奥底では、淳子が私の耳をかじりながら、熱い息を吹きかけて囁いてくる。「私の血を吸ってみたくない?」私はうんと頷く。吸血鬼ごっこの興奮・・・いつも夜寝る前にやっていたあれだ・・・怪奇マンガの模倣・・・私は八重歯と犬歯を剥き出しにする。「待ってよ、慌てないで・・・ゆっくり楽しみながら・・・ね?」淳子が股を広げてくる。私はその中に侵入する。淳子が歓喜の声を漏らし、私の肩に噛みついてくる。その鮮やかな痛みは、不思議に快く感じられる。布団そのものを呼吸させて、ひんやりした新鮮な空気を取り入れながら、お互い汗びっしょりになって、お互いの肉体を貪り合う。そのうち・・・闇の中のどこかから、悲しげな女の泣き声が響く・・・「あたしを殺して」・・・「あたしは人間になりたい」・・・「あたしをあんたにあげるわ。だから残さずにきれいに食べてしまってよ」・・・白い粘液の感触の中で、私は肉体そのものが裂け、その中から、鋭い獣の牙が出現するのを感じる。闇の中を手探って、すすり泣く少女の喉を掴み、その柔肌に牙を突き立てる・・・低くこもった悲鳴・・・迸る熱い血潮の感触・・・どろりとして、塩辛くて、喉を通り過ぎると、ほんのりと甘さが残るような味・・・思春期の少女の血潮は野性的な味わいだ・・・闇の中の奇妙な感触・・・精神と肉体が完全に分離し、身体中がバラバラに解体するような感触だ。全てが白い粘液の中に溶けてしまうような・・・ふと気がつくと、私は濃い霧の中に突っ立っている。目の前には断崖絶壁。谷底は濃い霧に覆われていて、どれほどの深さだか分からない。向こう側の崖の面刳り貫いた洞窟みたいなものがあり、その中に何か祭壇のようなものが見える。その前からこちらまで、まっすぐに伸びた岩の橋がかかっているのだが、やっと一人が渡れるくらいの狭い道で、しかもその上に何だかミイラのような人間の死体がいくつも横たわっている。よくよく見ると、驚いたことにどの死体も男のもので、性器が無残にも切り取られている。何故か、私はその洞窟の中の祭壇へ行かなければならぬという気持ちになっていて、おっかなびっくりでその橋を渡っていく。半分も渡ったところで、いきなりミイラのひとつが私の足首をわっしと掴んでくる。私はバランスを崩し、危うく谷底へおっこちそうになるが、岩のとっかかりにつかまったおかげで助かる。喘ぎながら橋の上に這い上がろうとすると、ミイラの集団がむっくり起き上がって、私のいた崖の方へ走っていくではないか。何だか呻くような、泣き喚くような悲鳴をあげながら。きれいさっぱりになった橋の上に立ち、前方の洞窟を見ると、その中の祭壇が何を祭っているのか分かってくる。巨大な観音の顔だったのだ。それにしても奇妙な観音だ・・・まなこを半開きにして何ともいえない微笑を浮かべてはいるが、青緑色の肌の観音は珍しい。しかも顔中を無数の白蛇が這いうねっている。その時になって初めて、私は洞窟の入り口が板切れや石、レンガなどで封印されていたことに気づく。その残骸があたりに散らばっていたのだ。入り口の上部からは、その板切れの折れたやつが、首吊り死体のようにぶら下がっている。私はナイフを取り出し、白蛇の束をはらいのけながら、観音の顔に何か仕掛けがないかと調べ始める。何かお宝が隠されていないかと思ったのである。調べているうちに、どこかから得体の知れない妖気が漂ってくる。何か、心のひだの奥に無理矢理潜り込んでくるような、禍々しい感触・・・ふいに、辺りに変にしわがれた声で「天皇陛下だ!天皇陛下だ!」という叫び声が響き渡っていく。続いて「天皇陛下が御寝所に戻られる!」とか「白蛇天皇陛下、万歳!」とか濃くなりつつある妖気とともに聞こえてくる。その時、目の前の霧の中から、一人の女性の姿が幻のように出現してくる。淳子だ!私は痙攣的な恐怖の発作に襲われ、思わず拳銃を突き出して引き金を絞る。銃弾が淳子の喉を貫き、鮮血を迸らせるが、淳子は謎めいた微笑を浮かべたままでこちらに歩み寄ってくる。私は絶叫する・・・「どうしたの?あれを思い出しちゃったの?」ふいに、大人になった淳子が私の手を撫でてくる。「思い出すどころか、あれは完全に僕の一部になってしまったよ」私は淳子に気恥ずかしそうな目を向けながら、ぽつりと呟く。「おかげで、僕は今まで一度もプラトニックな恋というものをしたことがない」それを聞いて、唇の端を思いっきり吊り上げた淳子は吐息とともに言う。「プラトニックってなあに?何だか気味の悪い響きね。そんなの、ほんとの愛じゃないわ。分かってるでしょ?」
姉さんは知っていた。
謎というものが、
迷路というものが、
ミノタウロスというものが、欲望そのものだということを。
それ自体を解き明かして満足するのは、自らを死に至らしめることと同じなのだ。
だから、私たちは、迷宮を旗印とする、決して満足することのない原始的な欲望に、永遠の忠誠を誓うのだ。
・・・・・・
両性具有(アンドロギュノス)が我々を待っている。人間的なものと非人間的なものの間にあるものが我々を待っている。つかの間と永遠の間にあるものが我々を待っている。天使と悪魔の間にあるものが我々を待っている。現実と夢の間にあるものが我々を待っている。理性と狂気の間にあるものが我々を待っている・・・我々を待っているものは、破壊と狂気と地獄の中で明確になる原始的な人間性だ。我々はそれと巡り会い、驚愕した上で愉しみ、それを自分のものにすることで天国を手に入れるのだ・・・
・・・・・・
淳子姉さん。あの時、僕が吸った血、姉さんの血肉は今や僕の血肉になっているよ。あのさ・・・姉さんは、暗い情念を有している自分自身を恥じているもう一人の自分自身を持っていたんだね。一般社会に憧れている自分自身もさ。姉さんの最大の望みは、僕の内奥に自分自身を見出して、その原始性、あるいは白蛇少女に食べてもらうことだったんだ。そうすることで、姉さんは救われようとしたんだよね・・・そうだろう?だけど、あの力、持って生まれたものは、死ぬまで、いや、ことによると永遠についてまわるものなんだ。それでも密かに期待しちゃうんだよね・・・もしかしたら、まともになれるかもしれないなんてね・・・悲しいよね・・・自分自身というものに、びっくりしたり、醒めてしまったり、興奮したり、絶望したり、色々あるかもしれないけど、人間ってもともと二重にして多重なんだよ。宇宙の果てと同じく、まだまだ未知だらけの領域を秘めているんだ。そうだよ・・・もともとそれを教えてくれたのは姉さんじゃないか。さあ泣くのはやめて。僕だって時には、白蛇少女が怖くなったりイヤになったりするさ。今はそうじゃないから安心していいよ・・・さて、どこに埋めたんだっけ?淳子姉さん、もう出てきていいよ。
・・・・・・
今、私の中には、姉が棲んでいる。“白蛇少女”の名を持つ恐るべき妖女だ。現実の姉はだんだん年老いていくが、私の中の姉は永遠に恐ろしく美しいままだ。今、私は理解している。ほんとうの愛とは、お互いを所有することではなく、大いなる欲望のもとにおける共鳴であり、そしてセックスとはその大いなる欲望を共に分かち合うことなのだと・・・
あたしたちの愛を覚えている?と淳子が言った。
うん、と清太郎。
もっと大きな声で、と淳子。ぜんぜん聞こえないわよ。
僕たちの愛を覚えている、と清太郎。
そのうちで、しっかりと心に刻みつけられて今も残っているのは、と淳子が言った、百年以上に渡るひっきりなしの雨の後でも当然残ると考えられるものだけだ。すでにその前に持ち去られていたのが、理性と、知性と、道徳心と、良識だった。それに正気も、と彼女は付け加えた、うっかり忘れるところだったわ、頭がどうかしているわね、あたしは。
それに狂気も、もちろん、と清太郎。
信じてくれようとくれまいと、と淳子、あたしにはどうでもいいことだけど、狂気は残していってくれた。
それにしても、あれは立派なものだった、今どこにある?
多分、持ち去るのをつい忘れただけなんだと思うわ、と淳子、だからあたしもそのままにしてきた、それが一番いいと思ったの、いまさら何か生まれるものがあるわけじゃないし、実は逆さにしてきたのよ、どうしてだかあたしにもわからないけど。
逆さでも愛することは出来るのかい、と清太郎。
うん、それは大丈夫よ、と淳子。
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