昔、うちには山の形をした石が飾ってあった。専用の台座までついてるちゃんとした置物。この石はいつもテレビの上に置いてあって、触った感じが滑らかで、よく意味も無く触ってたものだ。当時は石の置物なんて別に変だとも思わなかったけど、今からすると石をざわざわ台座の上に置いて飾るとか、なんか変かも知れない。ちなみに僕がつげ義春の「石を売る」や「無能の人」などを読んで石を鑑賞する趣味というものがあるってことを知ったのは大学生くらいのころだった。
ところで、子供の頃には石を拾ってきては遊んでたけど、よく考えてみればあれだって石の鑑賞みたいなものだろう。もちろん水石鑑賞みたいに石の中に森羅万象を見るような抽象的で観念的な楽しみではなく、単純に石の綺麗さや触り心地を面白がってたものだったが、自然にある石の楽しみという点では一緒だ。
小学生くらいの頃までは石でじゅうぶん楽しめたものだが、今考えるとなんであんなことが出来たのか不思議でしょがない。今でも石を楽しむことくらい出来るだろうが、昔のように本気でイイと感じるのは無理なのではないか。そもそも大人になるにつれて背が伸びて地面までの距離が遠くなり、石にまで目が行かないし、珍しそうな石があったとしても、ふーんと思うだけで終わる。ましてや石を手に取ってみるなんてことはまず無い。手に取る前に手が汚れることを気にするだろう。
これは、成長してこうなったということよりも、ただ単に劣化しただけだ。楽しめたはずのことに楽しめなくなってしまったのだ。そしてこれはほんの一例であって、かつては心から楽しめたのに年齢とともに楽しめなくなってしまったものというのは案外多い。
うちにあった石の置物は、いつの間にか捨てられていた。僕がもらっておけばよかった。ところで石というのはゴミの分別の種類は何になるのだろう?そもそも石はゴミなのだろうか?どこかの川原に投げられて、ただの石に戻ってたら面白いのに。
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