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2017年12月31日13:30

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蕪村は読み手に丸投げする?

    学問は尻から抜ける蛍かな

蕪村の句。
これは、一見,学問ノススメの真逆と思われがちです。
しかし、よく読むと、「ちょっとかじったくらいでは、
蛍の灯がすぐに消えてしまって跡形もなくなって
しまうように、学問は身につかないよ」なのです。
この俳画の人物は、さらに深く突き詰めてみようか
どうか、それとも蛍が消えるごとく、儚い美しい夢と
して学の厳しさを避けようかと自問しているのでしょう。

上述の自問は常につきまとうものとしてある。
そこで、自省と共に無限後退するわけです。
蕪村の句の「おかし」は反転する動きをうみだす
ところにあると思われます。例えば、以下の句です。

   春雨やもの書ぬ身のあはれなる

春雨の「あはれ」は誰もが感じるものの、書いて
表わさないことには、「あはれ」を感じているか
どうか不問に付されてしまう。蕪村は、この句を
詠んだことで「あはれ」を感じたことを表している。

とはいうものの、どのように「あはれ」を感じたのか
に関しては想像の域を出ない。すると、詠むのではなく
「春雨」に関する「あはれ」に言及する、書くのか。
誰誰が「春雨」をこのように詠っていると書くことは
「春雨」をより深く味わうことになるかもしれない。

蕪村は畑を耕す人でもあった。雨が降ってきたので、
春雨だったが、鋤を振っていた手を休め、家の中に
入ったのかもしれない。「晴耕雨読」ですね。
雨が降ってきたので、家に入ってこの句を詠み、
他の人がどのように「春雨」を詠んだのか、「あはれ」を
味わったのかもしれない。ここで要求されるのは、読み手の
自己投射である。

   昼舟に狂女のせたり春の水

ここで、舟の狂女はどのように振るまっているのか。
「隅田川」の狂女は大声を出しているイメージはない。
しかし、出していてもおかしくはない。
どんどんエスカレート可能な句だ。強烈さを内蔵させている。

読み手に丸投げの蕪村!?

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