ロスジェネ世代における「努力」とは!? 「時代や社会のせいにするのは当たり前」vs「そもそもの努力が足りない」
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「努力を続ける理由」が本題のようだが、その辺りは大多数のほかの方に任せるとして。
「そもそもの努力が足りない」とまで言うつもりはない。
犯罪者だろうが短絡的な子供だろうが大賢者だろうが一般人だろうが、全ての言動は「本人の考える範囲での合理的な選択」だろうから。つまり、努力を続けるのと同様に止めるのも「本人なりの合理的な選択」だ。
ただ見えている範囲や知識、情報、立場、価値観が異なるだけだ。
「努力を止める理由」とは何か?
本記事では「時代や社会のせいにするのは当たり前」であり「結果が出ないから」ということのようだが。
「努力をしても結果が出ないから」の対偶は「結果が出るから努力する」ということ。
論理的に言うならば「結果が出る保証なんてない」。
要は時代や社会のせいではなくて、「自分の意志で努力を止めた」のだから、スパッとあきらめて新たな目標に向かっていくのが合理的な考え方だ。本当に「時代や社会のせい」ならば努力しても無駄だから「あきらめることが素直にできる」のではないかな?
例えば「時代や社会、環境のせい」といえば天気辺りが好例か。行楽に出かけるときに雨が降ることは残念に思う。人間に雨を止めることはできない。ただ傘を準備できるし、予報を見て備えることはできる。できることをやろう。できないことで悩むのは無駄なのであきらめようということだ。
それなのに「素直に諦められない」という時点で、おそらく前提が間違っているのだろう。つまり「時代や社会のせい」という前提が間違いなんでは?
あきらめきれずにストレスをためるくらいなら、あきらめずに努力続ければいいのじゃないかしら?
とりあえず「努力を止めて、時代や社会のせい」にしたところで「結果は出ない」ということだけは確実に言える。
個人的には自分にできることがある間は「あきらめずに死ぬまであがく」のが好きだし、逆に自分ではどうしようもないことばかりになったら、諦めるだけのことだと思う。
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