mixiユーザー(id:2759054)

2017年12月07日00:52

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トンデモ本 ”Basho and Dao"

芭蕉の俳諧は荘子が核になっているというテーゼを出している本。

https://www.amazon.co.jp/Basho-Dao-Zhuangzi-Transformation-Haikai/dp/0824828453/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1512573151&sr=8-1&keywords=basho+and+dao

7000円近くもする高価な本。
この本は貰っても読まない。
理由は以下。

先ず、自分で検索してヒットしたものではないこと。
FBの数あるグループの一つで紹介された。
経緯は以下。

鴉を詠んだ芭蕉の句がある。

枯朶に鴉のとまりけり秋の暮れ
日比ふゞき烏も雪のあした哉

「名誉教授」と立派な肩書のある日本人が、二番目の句を
出してきた。読み下していない芭蕉直筆掛け軸の画像を
出してきたのだが、「芭蕉は烏嫌いじゃなかったの」と
書き込んでいた。そこで、最初の句を挙げ、萩原朔太郎が
鴉は芭蕉自身なのだと書いていることにも言及した。
詩歌には自己投射は付き物。普段は見向きもされないものも
自己投射により輝く。好き嫌いの問題ではなく、視点を変更
することも時には必要だ。
烏や鴉は神話に出てくるし、古代においては重要な役割を
与えられている。南方熊楠を参照すると出ている。
http://www.minakatella.net/letters/dobutusuhai11.html

「名誉教授」は以前も子規の未発表俳句の英文記事を紹介した際、
ローマ字音で読み下されたテキストの濁音が落ちているのに
そのまま流していた。頑張って英訳していた人の投稿で気がついた
が、いい加減な「名誉教授」だなぁと思った。

すると「名誉教授」の援護射撃が前出の本によって行われた!
勘違いしている。
先ず、雅な和歌に対する滑稽さを旨とする俳諧。
俳諧の神髄は服部雷雪の「蛇苺」の句に見たように歌舞伎的
展開を行ったりする。合わせは極めて作為的だ。老荘においては
作為より無為ではないか。芭蕉の場合、雷雪よりスケールが
小さいとはいえ、極めて作為的である。
芭蕉においては、老荘思想も禅を通して取り込まれているが、
それを荘子に還元するのは繊細さを欠いている。

高い本だなぁと思ったら、そのグループ管理者ブログで
これがタダで読めるようになっていた!?
さらに驚いたのは、といっても或る意味当然ないし必然的なのだが、
この高価な本の著者Peipei Qiuが日本帝国軍の中国人性奴隷の本も書いていた!?

https://www.amazon.co.jp/Peipei-Qiu/e/B001KI0HOA/ref=dp_byline_cont_book_1



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