観終わってから人伝てにこれがルビッチの映画のリメイク(正確には同じ原作の再映画化)であることを知る。原作を書いたのは、『シラノ・ド・ベルジュラック』を書いたロスタンの息子。原作もルビッチの映画『私が殺した男』も今から80年以上も前の作品。それを何故今更フランソワ・オゾンが映画化したのか?
リメイク(同一小説の再映画化)だということは宣伝では強調されていない。ネタバレになってしまうからであるけど、それは卑怯と云うものであろう。これは真相(バレバレの)が明かされるまでは前段でしかないのだから。
『私が殺した男』はフランス人青年側からの視点で、戦争中殺してしまったドイツ兵への贖罪の為にその父母、婚約者の前に現われたが本当のことが言えず殺した兵の友人を装うという話で、優しくされて嘘をついているのが苦しくなり全部ぶちまけようとするが真相を知った婚約者に止められて二人は結ばれるという結末。戦後も元敵同士が反目することの愚かさを訴えている。
オゾンはこれを元婚約者のドイツ娘を主人公とし、ルビッチ版でのラストを変更しそこを物語の中盤として、その後の物語を新たに創り出した。だいたい仇である青年を引き留めて結ばれるというのはいかにも理想的(ある意味皮肉が利きすぎ)だからなあ。青年をフランスに帰し、秘密をたった一人で抱え込んだヒロインの心情と行動の変遷を、第一次大戦後の復興途上のパリ、フランスまで追っていく。
戦争は人間の心身を傷つける。それがヤワな音楽家青年なら尚の事。ヒロインは青年との再会でそのことを痛感しつつ、一方で芸術こそが生きていく縁(よすが)になることも悟るのだ。
ログインしてコメントを確認・投稿する