恋は時にはSFのように。そして恋とは時にはホラーのように。 自分の起こした事故で父を失い母と疎遠になり命知らずなスタント業で生計を立てながら天文学の博士号を取ろうとしている、しかも遥か年上の著名な天文学の教授と愛人関係にある学生。 ヒロイン
『ロビンソン・クルーソー』であり、人外化身恋愛ものであり、手塚治虫に人格を持った孤島に愛される男の悲喜劇を描いた『われ泣きぬれて島と』という大人向き短編があるがどこか彷彿させられる。静謐で美しく温かく、それでいて冷徹な寓話。これが人生とい
ここまで過不足のない見事な構成の映画は滅多にない。但し、小品であるが。『ハドソン川の奇跡』が「アメリカが9・11を克服するために必要だった“ハッピーエンドで終わる飛行機事故の映画”」(製作者の発言(文意))だとすると、さしずめ『シン・ゴジラ
もっとハチャメチャなものを期待してた。エンディングクレジットの際に流れる絵物語での後日談こそ、本編でやるべきだった。 テレビドラマ演出家としての堤幸彦は大いに評価しているが、本編(映画)はやってはいけないひと。今回それを再確認したことにな
予備知識がないと唐突に見えてしまうが、アルモドバル製作のこのアルゼンチン映画で描かれる「家族そろって誘拐業」が“成立”してしまったのもその前史があるから。 『エビータ』という映画にもなった芝居があって、あれはアルゼンチンの国家的な英雄から
地方マンセー映画や文芸ツマラン映画とは一線も二線も画す「佐藤泰志+大阪芸大出身監督函館3部作」。その掉尾を山下敦弘は見事に飾ってみせた。 遅い夏が訪れようとしていた函館の職業訓練校。煙草のけむりで見えない明日への不安を覆い隠しているかの
主筋と3つの話とを絡ませて進ませる以上、登場人物たちがいささか類型性を帯びること(パターン化)は致しかたないと思う。『恋人たち』では無名の俳優(或いは殆ど素人)たちによる匿名的なアンサンブルが有効だったが、こちらはギャラのことを考えたらキ
特段書きたいこともないけど(このシリーズ殆ど観てないけど自分で設定の補完ぐらい出来るわ)、だからといって全く面白くなかったわけでもない。正統派DCヒーローたちが一旦死んでたり(爆)休暇中なのか出てこなかったりするから成立するという、究極のご
登場人物たち自身に大きな事件が降りかかるわけでもないし(事件は家庭の中にあったりする)、人間の心理を深く追求する物語でもない。むしろその真逆に、追求しようもない、とらえどころのない人間というものの正体をそのまま描いている。本筋に絡んでいる
そのシリーズされるかも(製作者としてはそうしたい)映画。前作は途中までは突拍子もないながら あり得そうな展開だったのが、クライマックスで江戸市中で派手な殺陣をぶちかましてしまい、ガッカリさせられたが、今作はそういうのを全部吹っ切ってしまい
すっかりデッド―プールのイメージが色濃くなってしまったが、彼、ライアン・レイノルズはただのアクション・コメディ俳優ではなく、他方、静かに時に激しく苦悩する青年/父親をシリアスに演じることもあって(『白い沈黙』『黄金のアデーレ 名画の帰還』)
続編というかシリーズもの(日本ではすっかり少なくなったが、テレビドラマのロングラン連続ものも)というものは、作られていくうちに設定が微調整される中でキャラクターが安定してきたりして、物語のツボが明確になっていく。作り手が企画段階では思いも
フランス。古ぼけた団地。2階に住んでるからエレベーターなんか使わないからと一人だけ補修費用を払わない(エアロバイクを衝動買いできるぐらいにはカネはあるのに)いけ好かない孤独な初老の男。しかし天罰が下ったのか、そのエアロバイクを漕いでいて脳
芸人モノ、古くは芸道モノといったけど。ようやく人気を得た漫才コンビの片方が不慮の事故で死んだあと残された相方がいかに再起するかというありがちな話なんだけどそうではなくて、時制を微妙にずらし時空や生死を少々超越させてみせながら、事故死までに
『フェーム』のようなNYの音楽学校を舞台にした青春ものに恋愛とバトル要素を加え、ミュージカル(というかライブ)っぽく仕立てられた作品。歌唱は無しで、クラシックとダンス(古典からモダン、ストリートまで)を融合させたというところに特色あり。こ
憂鬱という字がまた書けないと思うだけで憂鬱… 原題「La loi du marche」(=「市場(しじょう)の掟」)(loiはこの場合、「法律」「法則」ではなく「掟」と訳するべきであろう) 日本でも下層労働者が出てくる映画、ドラマは数多く作られているが、階