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2017年08月06日13:25

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【ブックレビュー】グローバリゼーションの倫理学

グローバリゼーションの倫理学
ピーター・シンガー著
山内友三郎/樫則章訳
昭和堂


 過激な動物愛護で有名な哲学者です。存命の哲学者の中ではトップクラスの知名度でしょうか。


 日本人の立ち位置からすると、グローバリゼーションやグローバリズムは、いわゆるアメリカ化、欧米の価値観の受け入れ、といった文化や行動様式を中心としたニュアンスを持ってしまうかもしれません。少なくとも私はそうです。著者は、“日本の読者に”の章で、

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 グローバリゼーションという言葉で連想されるのは、多くの場合、貿易と世界貿易機関によって定められた諸規則でしょう。もちろん、それらはグローバリゼーションの中心部分です。そして世界貿易機関によって定められた諸規則は発展途上国に対して―とくにその農産物に関して―公正なものになるように改善されねばなりません。けれども、グローバリゼーションは貿易という領域にとどまるものではありません。グローバリゼーションが意味するのは、グローバルな問題をグローバルなレベルで扱いうる状態へと発展することなのです。
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と、定義しています。そして、本書では、貿易だけでなく、環境問題や軍事介入等の分野でのグローバリゼーションについて議論をしています。


 第一章で全体の内容について軽く触れた後、第二章では環境問題について論じています。

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(前略)フロン類によって噴射されるエアロゾルタイプのデオドラントスプレーをニューヨークのアパートで脇の下に噴射することによって、チリのブンタアレナスに住む人びとが何年もたってから後の皮膚ガンによって死ぬことに一因となるのである。車を運転すれば二酸化炭素を放出することになるが、それはバングラデシュでの致命的な洪水を引き起こす因果連鎖の一部になる。従来の倫理学をどのように修正すれば、この新たな状況をも考慮に入れることができるようになるだろうか。
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 このように、悪い表現をすれば、罪悪感を過剰に煽るのが著者の特徴で、動物愛護や貿易や格差に関しても同じような論調です。経済について面白い指摘をひとつ。

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 メルキオール、テーレ、ヴィークのノルウェー・チームは、先に見たように、特定の方法で測定した場合、所得の不平等は世界貿易の解放が進むにつれ減少したと主張している。だが、グローバリゼーションによって不平等が削減されたことをデータによって結論づけることができるとは、三人は考えていない。テクノロジーの変化とグローバリゼーションは同時に生じているため―しかもそれらは内的に関連し合っているので―それら二つの影響を分けることは難しい。新しい技術を生かすことができる高度熟練労働者と、新技術によってその労働が余分となるおそれのある非熟練労働者の間の不平等が、テクノロジー変化によって増大するという証拠もある。(以下略)
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 本書のアメリカでの出版は2002年なのですが、今現在私たちが直面しているAIと労働者の問題が指摘されています。IT技術の発達は、知識とスキルをフラットにするどころか、格差を拡げてしまいましたね。


 私が最も興味を持ったのは、第四章“ひとつの法”でした。

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 集団虐殺は新しい現象ではない。聖書を読んだことのある人なら、誰でもそのことを知っている。「民数記」には、イスラエルの男たちが近隣部族のミデヤンの女たちの魅力の虜になったときのことが述べられている。
(中略)
 前世紀の大半にわたって広く信じられてきたことがある。すなわち、人が暴力という罪を犯すのは、貧困、無知、抑圧、虐待、ないしは搾取のせいであり、人がその罪を犯すときにこれらのどの状態にも当てはまらない場合でも、幼児期のような人格形成期に、これらの状態の少なくとも一つが当てはまったはずだということである。そしてこのことは、個人的な罪を犯す人だけでなく、もっと大規模な犯罪に関与する人についても言えることだと考えられてきた。
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 著者はこの広く信じられてきたことを否定し、人間および進化の前段階でも、貧困等の理由がなくても、虐殺は遺伝学的な利益をもたらすために起こされていて、二〇世紀の大量殺人も目新しい現象ではなかったとしています。たまたま並行して「大量虐殺は啓蒙主義による弁証法的な結果だ」と主張する本を読んでいたため、混乱しつつ考えさせられました。


 著者の立場を明確に表している部分を引用します。

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 ここには論争の的になる重要な倫理的問題があるが、それはどのような場合に他国の内政に介入するのが正しいかに関する議論に対して、しばしば誤った反論を引き起こすような問題である。すなわち、[NATOが]コソボ紛争を起こしたセルビアに介入したことが正当化できるなら、チェチェン問題を起こしたロシアやチベット問題を起こした中国に介入することも正当化できると認められなければならないのではないか、という反論である。この反論が見落としているのは、介入する法的根拠があり、正当な理由まであるということと、あらゆることを考慮に入れた上で、介入することが正当化されるということは、まったく別の問題だということである。この区別が示しているのは、ロシアのチェチェン問題や中国のチベット問題にNATOが介入するのが誤りであるという理由は、(少なくとも、大国が小国にしていることに関して)介入する法的な根拠や正当な大義がないからということではなく、介入すれば結果として戦争が起こり、それによってもたらされると予測される人的コストが介入を不正なものにするからということである。これは、「二重基準【ダブルスタンダード】」の一例と考えられるべきではない。最善の帰結をもたらす行為をするのが正しいという、ただ一つの基準があるだけである。そしてその基準によれば、介入のコストが、介入によってもたらされる利益よりも大きいようならば、介入すべきではないのである。
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 つまり介入しない場合と介入する場合で、どちらの死者や負傷者等が多いか予測して介入の是非を決める、という帰結主義です。ひどい決め方だとは思いますが、たぶん一般的にはより倫理的だと見なされる義務論(予想される結果に拘わらず正しいと思われる行為を為す・私も義務論派です)では、“それでは正しさとは何か”という議論を避けられませんので、実社会では帰結主義を含む功利主義が主流となっているのだと思います。なにこの敗北感。


 貧困や格差について論じた第五章では、ボブが自分の車を壊さないために線路上の子どもを見殺しにするかどうかというトロッコ問題のバリエーションについて考察しつつ、寄付行為を強く推奨しています。予防接種や補水塩の価格を挙げて、

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 (前略)アンガーは何人かの専門家に頼んでこれらの費用と、救うことのできる命の数の大雑把な見積もりをしてもらったところ、一人の子どもを救うために二〇〇ドルという数字がはじき出された。この見積もりがそれほど的の外れたものでないとすると、もしあなたがまだ、ボブが列車の進行方向を変える切替スイッチを入れて子どもの命を救わなかったことを非常に悪いことだと思っているなら、上に挙げたいずれかの団体に少なくとも二〇〇ドルを送らないこともまた非常に悪いことだということを、あなたは認めざるをえなくなるように思われる。
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 うーん、専門家の計算が正しいのだとしても、普通の人にとっては二〇〇ドルはちょっと高過ぎないでしょうか。その点については、これも帰結主義らしい作戦があるようで、

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 (前略)もし、非常に高い要求の道徳を提唱することによって、それよりも要求の低い道徳よりも悪い帰結がもたらされるというのが本当ならば、たしかに私たちはより要求の低い道徳を提唱すべきである。(後略)
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 なんというドライさでしょう(笑)。もっとも、リーマンショックによってアメリカ経済が混乱すると共に、アメリカ国内の格差や分断が問題化する以前の話ですので、もしかしたら二〇〇ドルというのは感覚的には妥当だったのかもしれません。

 ただ、著者は、環境問題においては、過去(自分が生まれる前や、廃棄によって問題が発生すると認識されていなかった時期)のペナルティも払うべきだと主張していながら、貧困に苦しむ子どもを過剰に生み出している発展途上国の政府や子どもの親に対してのペナルティに言及していないのが気になります。先進国からの働きかけが必要なのは子どもではなくて政府や大人ではないでしょうか。


 個人的には、遠い将来は国境も差別もないフラットな世界になればいいなと夢想してはいますが、それが不可能だという現実も理解しています(生物学的な制約が排除されれば可能かもしれないとは思っています)。なので、著者のように、何の縁も無い発展途上国の子どものために先進国の国民は可能な限り寄付をするのが正しいとか、動物も人間と同等の権利を持っているとか主張されると少しばかり引いてしまいます。ですが、著者が多くの賛同と批判を集めながら、こういった提唱をしているのがよく理解できる一冊でした。

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