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2017年08月05日06:48

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政党政治の終焉から

5.15事件が起こり、当時の護憲運動の旗頭であった犬養毅首相が、暗殺されました。犬養首相は、前任の若槻礼次郎とは違い、事変を積極的に承認した人物です。「話せば分かる」との犬養首相の言葉に対して、「問答無用!」と銃撃を加えたことは有名な話でしょう。これにより、事実上、政党政治は終焉を迎えたのです。

この事件で重大なのは、単に現職の総理大臣が凶弾に倒れたということではありません。むしろ注目すべきは、犯人の将校たちへの助命運動が巻き起こり、その結果、主犯格に対する判決が、禁固15年というような軽いものとなったことなのです。政党政治の腐敗が昭和恐慌へと導いたとは言え、日本国の首相の命の軽さは来るべき波乱の時代を予想させるのに十分でした。同じ頃、国際連盟から派遣されたリットン調査団が、満洲とその周辺の調査を行っています。

その年の10月に公表された報告書では、柳条事件に始まる日本軍を、自衛とは言いがたいとして、中国側の主張を支持しました。しかし、一方的に日本を非難していたというわけでもありません。柳条湖事件以前への回復という中国側の主張も、満州国の承認という日本側の主張も、ともに問題の解決として、満洲に自治政府を設立するよう提言していたのです。

これは、石原莞爾が満洲建国をプランニングする以前の、関東軍や参謀本部の、満蒙問題解決方針とほぼ一致していました。つまり、それなりの妥当性を有していたわけですが、すでに成立していた満洲国を否定する内容なので、日本が受け入れられるはずもなかったのです。

翌年2月の国連総会での決議の結果、賛成42、反対は日本の1、棄権1という圧倒的多数で、このリットン報告集は可決されます。日本の松岡洋介首席全権は、これを不服として議場を退場、翌月国際連盟を脱退するのです。これ以降、急坂を転げ落ちるように、日本の国際的孤立が深まっていくのは、周知の事実です。

同じ年に、ドイツでは、ナチス党が総選挙腕647議席中、288議席を占めて第一党となり、ヒトラーが首相に任命されました。その翌年、大統領のヒンデンブルグの死去により、ヒトラーは、大統領と首相を兼ねた新設の総統職に就き、ドイツの独裁者となりました。

ヒトラーは、第一次世界大戦の敗戦に打ちひしがれる民衆に対し、ドイツ民族の優越性を強く訴えて支持を得ました。そしてベルサイユ条約のくびきから逃れるべく、再軍備路線をひた走り、オーストリアやチェコのズデーデン地方などを併合し、強いドイツを実現させて行くことになるのです。

つまり、国際連盟脱退とヒトラーの政権奪取という、大事件が起こっているのです。この2つは、別々のものではないというのは、国連脱退による孤立により、とくに英米との関係悪化を補うために、日本はドイツと接近し、日独伊三国同盟を結ぶことになるからです。そして、この三国同盟こそ国策の決定的な誤りであることが、後に明らかになり、日本は、大変な苦難の中に立たされることになるのです
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