宗論は、どちらが勝っても釈迦の勝ち。
あー、でも、法華と真宗とかじゃなくて、下の小三治の落語みたいに、仏教とキリスト教のあいだの”宗論”だと、「釈迦の勝ち」じゃないよね。
困った。 プラットフォーム (土台) が違うって、なまら難儀。
いえ、私がいいたかったのはね。 「宗論はどちら負けても釈迦の恥」っていう、この落語の冒頭で紹介されるコトワザみたいな姿勢は、世渡り的には正しいかもしれない。 でも、学問の世界ではやめようぜ、っていうこと。
いらんもめ事は避けたほうがいい、っていうのは、分からなくもないけど、「負け=恥」っていうプレッシャーのかけ方がまことによろしくない。
恥をかきたくないから発言しない。
よく見られることだよね。 ゼミや授業なんかでも。
ちゃんとした手順に沿って正々堂々と論争したのなら、勝ちだけじゃなくて負けも、恥ずかしくはない、立派なことだよ。
(だいたい、ゲームにおいて、負ける側がいなけりゃ、勝つ側もない。 勝者は、きみがいたからゲームになって勝てたんだ、ありがとう、と、敗者にお礼をいうべき、くらいなもので。)
論争は、どちらが勝っても学問 (あるいはパブリック )の勝ち
要するに、そういいたかったんすよ。
わかるかなあ。 これが分かるようになるってことも、厨房が大人になるための一つのステップだと思うよ。
BGM (?):
柳家小三治(十代目) 宗論*:
https://www.youtube.com/watch?v=aGcWOuDGJRw
P.S.
ああ、宗論についての昔からのコトワザは、同じ仏教でも、プラットフォームが違うから論争にならない、やめとき、ってことだったのかも。
落ちがつかず、相手を悪しざまにののしるのに終始する。
それ、恥ずかしいやろう。 お釈迦様が見てはるで (「マリア様が見てる」からのパクリ)。
そういうココロであるなら、納得です。
P.P.S.
画像右上は、落語のネタ元になった狂言の「宗論」の一場面。
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