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2017年05月21日20:38

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2回目の高関さんのブル5だったけど・・・京響定期

うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん・・・・・・・・・もう一声(^_^)、と思ってしまうぐすたふ君はだめな人でしょうか?

京都 京都コンサートホール
京響第612回定期演奏会
高関健指揮 京都市交響楽団
(客演 コンサートマスター 石田泰尚)
ブルックナー:交響曲第5番 変ロ長調

今日は久しぶりに泉原さんが舞台上。よかったよかった、と思っていると、その隣にはなにやら強面のお方がコンマス席に。客演の石田さんとのことだったけど、神奈川フィルのお方だったのね。しかしまあ、すごい存在感(違和感)。実際に演奏に入ると、その迫力いささかも減じることなく、キレキレのカッコよさでしたが、京響の雰囲気からはいささか浮いてましたな。こんな人もいるんや、とちょっと新鮮ではありましたが。

で、肝心のブル5ですが・・・・実は、高関さんのブル5は、大フィルでも聴いているはずで、その時は至極感心した思い出がある。極めて知的にかっちりと仕上げた、庭師ならではの仕事ぶりで、おおざっぱに勢いだけになってもおかしくない大フィルから、見上げるような音の構造物を打ち立てた様は、見事だった、という記憶がある。

今日の演奏もまた、いわば「楷書」の演奏。ここは止める、ここは跳ねる、ここは払う、といった一筆一筆を、丹念に書いていった、という印象が強い。

京響もまた、それに忠実に応える立派な演奏であったのもたしかなのだが・・・・・ただ、ぐすたふ君としては、ここまで演奏できるんだったら、もう一つ突き抜けてほしいなあ、という思いがどうしてもしてしまうんですよねえ。

実のところ、今日の演奏で一番楽しめたのは、3楽章。この楽章、実はテンポの上げ下げが結構むつかしくって、どんくさいことやってると、音楽構造の幾何学的感興をそがれてしまって、面白みが半減する。そこらへんがさすがは高関さんで、完璧といっていいほどのコントロール、絶妙の味わいを醸し出してました。

4楽章も、その複雑怪奇な音型のパズルが、ぶつかりあい、軋みあいつつ経過していく面白さは格別で、これも高関・京響ならでは。でもねえ、この楽章、最後の最後に到達するコーダのカタストロフが最大の聴きものなので、ここを何がどうなろうと「芸人魂」でもって大見えを切ってもらわないと、どうにも食い足りない思いがしてしまうんですよ(少なくとも、ぐすたふ君は)。そこらへん、朝比奈御大はよおおくわかっておられて、シカゴでこの曲を振った時なんて、まあ一世一代の大見えでありましたな。京響、シカゴにも決して引けをとらないブラスセクションを擁しているんだから、やろうと思えばできたんだろうとは思うのだが、そこまで「やっちゃう」ことをしないのが、高関美学なんでしょう。

もう一声、と思うのは、2楽章の聖歌においても感じたところ。この楽章は、やはり何か「巨大なもの」の存在をその背後に感じたい、そしてその存在から得られる「慰撫」の感覚を得たい、とどうしても思ってしまう。確かに、今日の京響のストリングセクションは、十分に鳴っていて、響きとしての不満は全くないといってもよかったのだけれど、もう少し懐の深さを感じさせてもらえれば、と思ってしまうあたりは、聴衆の欲深さなんだろうなあ。

だから、最後の拍手も「熱狂」というほどには至らなかったように感じましたが、実際、みなさんどう感じられたのかしら。このところの高関さん、マーラーの6番の時も、トゥーランガリラの時も、音楽のむこうにまで突き抜けていくすさまじさをみていただけに、今回のブルックナーでもそれを期待していたのだが・・・・期待が大きすぎたかもしれませんね。

これで高関さんの今季は終わってしまう・・・それももったいない話。7月に京都ミューズの「カルミナ」があるようで、その伴奏を高関・京響がやるというチラシを今日、もらったけれど、これを聴きに行くのもいいかもしれないなあ、と思ってます。
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