笹原宏之『謎の漢字』(中公新書)を読んだ。
「はじめに」で漢字には正しい漢字と間違った漢字という「思い込み」があるが、笹原さんは「漢字にとっての正しさは、ほとんどの場合、それぞれの時空において相対的なものにすぎない」と述べる。我が意を得たり。その通り。
この前、文科省が漢字の払いや刎ねに極度のこだわる日本語教育(国語や国史という言葉を僕は使わない)に警鐘を鳴らしたが、これは笹原さんの主張を政府が受け入れたせいだろう。
それは漢字の書法だけではなく、漢字の読みや仮名遣いでも同じだ。
中世の古記録で「雨下」という記述がよくあるが、これは「あめがふる」と訓む。中国漢文や漢詩文でも、前後の状況で本則ではない読み下しをすることが許される(これは明治時代に作られた慣行だろう)というが、これは意味下しの問題に限らず、当時の執筆者も別にこだわりなく雨が「下る」(ふる)と書いていた。
そして仮名遣い。勤務先の若い同僚で旧仮名遣いを使う人がいるが、藤原定家以前にはいわゆる旧仮名遣いはない。「伝統」主義者が旧仮名遣いを使うべきだというなら、もっと古い万葉仮名を使うべきだろう。
不十分ながら表音と表記をあわせようとした新仮名遣いに問題があることは承知している。でもそれは仮名遣いの歴史的変遷の一コマに過ぎない。今のところ、仮名遣いに完璧な正書法などない。定家仮名遣いだって歴史の一コマに過ぎない。
久しぶりに胸がすっとした。
本書の中程で海老蔵にこだわったのはどうかなと思うけど、前半の『国土行政区画総覧』という膨大な資料に基づく指摘は圧巻。
その上で、日本政府が国民の名字について調査をしていないという指摘もつくづく重い。政府はこの指摘を真摯に受けとめるべきだ。
ログインしてコメントを確認・投稿する