『河神の誘惑』第8話
その夜も、アケローオスはサガとカノンを誘って外出に連れ出していた。
その日、河神が二人を連れて行った先はアテネ市にあるヘロデス・アッティコス音楽堂だった。古代ローマ時代に同名の富豪が建設した野外の音楽堂で、現在でも座席が復元されて劇場や音楽堂として使われている。その夜は、古代ギリシャ悲劇の「メデイア」が上演されるというので、河神はその観劇に二人を誘ったのだ。
舞台が終わった後、河神はさらに二人をアテネ市の五つ星ホテルである「ホテル・グランドブルターニュ」に連れて行った。ホテルの最上階にあるレストランで夕食の席を予約していたからだ。ライトアップされたパルテノン神殿とアクロポリス、そしてアテネ市の夜景をルーフガーデンで眺めながら、彼らは極上の地中海料理とワインに舌つづみを打った。
その後も、カノンに乞われるまま、彼らはバーを三件はしごした。もちろん、観劇も、食事も、酒も、費用は全て河神持ちだった。
「ふわぁぁ、楽しかった」
遠慮なく他人の金で飲み食いしまくったカノンが、大きく腕を上げて背伸びをした。
「そろそろ帰ろう、カノン」
「え〜、もう一件行こうぜ」
「飲み過ぎだ、お前は」
千鳥足になった弟を兄がたしなめる。
「まだまだ夜はこれからだろ〜」
と、その時。
「う…」
カノンが口元を押さえた。
「…気持ち悪ィ…」
そして足をもつれさせて河神に寄りかかったカノンは、
「…うぉええええー」
と容赦なくアケローオス河神のジャケットに嘔吐した。
「うわぁぁぁ!カノン、お前、何を…!?」
神に吐瀉物を吐きかけるという失礼極まりない事態に、サガは軽くパニックを起こした。それこそ神罰が下ってもおかしくない失態なのだが、衣服を汚されたアケローオス本人はというと、さして怒った顔も動揺もしていなかった。
「…おい、カノン、大丈夫か?」
「うえぇ〜…吐いたらちょっと楽になった…」
「すみません!すみません!弟がすみません!」
謝罪しながらパンツのポケットからハンカチを取り出したサガが、河神の汚れたジャケットを拭いた。
「このジャケット…既製品ではないみたいですけど…」
「うん、娘たちの手作りだ」
「……!!!!」
娘、とは、アヘロオス河のニンフたちのことだ。血のつながりはないが、河の妖精(ナイアデス)はその河の神の娘ということになっている。
娘お手製のジャケット、おそらくは大切な品だろうに、それを汚してしまったというカノンのやらかしにサガはさらに焦ったが、アケローオス河神はのんきそうに言った。
「ま、お前にも膝に小便を漏らされたことがあるし…。いや、兄弟そろって神に汚物をぶちまけるとか、つくづく勇者だな、お前たち」
「なにそれ!?全然、記憶にないんですけど!!!」
全く身に覚えのない幼児時代の失敗譚をばらされて、サガは一瞬固まってしまった。
「…うう…本当にすみません…」
「構わん。…ほら、カノン、立て。帰るぞ」
嘔吐した後、気分の不快さからしゃがみこんでしまっていたカノンを、アケローオス河神は肩を貸して立たせた。
「…うえ〜…」
「やれやれ、歩けそうにないな。サガ、異次元でお前の官舎までつなげてくれ」
「はい」
こうして徒歩での帰宅を断念した三人は、サガのアナザーディメンションでアテネ市内にあるサガの官舎に直帰したのだった。
「うう…まだ気分悪ぃ…」
河神から離れたカノンがよたよたと官舎の玄関に入る。
「サガ、悪ぃ、今夜は聖域に帰るとか無理…。泊めてくれ」
聖域の周辺は険しい地形が多く、千鳥足のカノンではさすがに真夜中に帰るのは危険が大きすぎた。
「客間があるから、そこに泊まるといい」
「すまん…。先にシャワー浴びてくるわ…」
よろめきながらカノンがシャワー室に向かう。サガは弟がシャワーを浴びている間に客間のベッドメイキングを整えた。シャワーを浴び終わったカノンは、バスタオルで簡単に体をぬぐうと、裸のまま寝台に倒れ込んでそのまま寝てしまった。
「まったく…」
泥酔して寝入ってしまった弟の姿にため息をつく。それからサガは河神のジャケットを脱がせると、濡れたふきんで汚れを改めて拭いた。
「本当にすみません…。明日、クリーニングに出しますので」
「頼む。もう遅いし、出来たらおれもこのまま泊めてほしいんだが…」
「え…?」
河神の頼みに、サガは困った。客間は一つしかないのだが、そこの寝台はすでにカノンが占拠している。
「え…と、では、私の寝室を使ってください。私は居間のソファで寝ますから」
「それではお前の疲れが取れんだろう」
そして河神は何の気なく、お気軽に言った。
「一緒に寝るか?」
「……」
サガは一瞬固まったが、河神自身はいい考えだと思ったらしい。どこか楽しそうだ。
「うん。子供の頃は一緒に昼寝をしたこともあったしな。それがいい。今夜は一緒に寝よう」
「…あの…」
「ではおれもシャワーを浴びてくる」
そうして呆然としたサガを残し、勝手に同衾を決めた河神はシャワー室にと消えていったのだった。
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