大舞台のプレゼンで予定通りの事が話せなくなり、その場を時間で終えるには終えたが、結果は全く話にならない。
「あいつはもう駄目だ(立ち直れない)」と評された。
一昨年の事。
短期間で切り換えるには、かなり心身を削った。
もともとが落ち込まない性質なので、落ち込めない分傷が深く、起こる前と起こった後では自分も周囲も違う事がありありとわかる。
それでも行く。
起こる前ではそれほど怖くなかった物事が物凄く怖い。
はじめてそうなった時の衝撃たるや。
あれを初見でなんなくクリアする人間を見ると憎しみすら湧く。
起こらずに過ごしている人を憎むのではなく、一度その事が起こったにも拘らず、なんなくクリアする人間。
いやあ、正直怖い。
それは結局自分を憎む事になるわけだけれども。
どうやってそれを越えるかは、越えたいならそこに留まって闘うしかない。
逃げても逃げきれるものではないし、恐らく増幅する。
ぼくは翌年に同じ事に再挑戦して事なきを得た以上に成功し、同じ事に関しては越える事が出来た。
無理ではなかった。
ただ、一度目の時の単なる期待とは異なる周囲の眼も超えなければならない。
周囲の眼については、経験していた事があるので、闘い方は知っていた事でなんなく超える事が出来た。
これもはじめとなると、またひとつ苦しい闘いになる。
けれども、また未知なるものがやってくる事を思うと、やはり怖い。
実際その「未知なるもの」とはぼくにとってなんなのかを言うと、訓練によってでも資質によってでも可能だった、予定されているものを予定通りに遂行出来る筈の自分が、その場に立った時になんの自覚も無くコントロール不能に陥っている事。
もちろん物事のすべては「これまで」と「これから」の「これから」については全くどれを取っても「未知」なのだけれど、その未知に対して絶望をしていない自分が常に居る。
が、コントロール不能に陥っていると認識した時、絶望に至る。
なんらかの「機能障害」が起こっている。
確実に負けている自分が居た。
「適応障害」か。
「自分は適応出来ない」
なんて憎しみ溢れる言葉だろう。
ありのままの自分とはこう言う事も含めて言うのだ、と陥った事のない人とわかり合おうとは思わないが。
また、今日は眠る。
NHK山形、お天気お姉さんが本番中突然泣き出したのは「混乱したため」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=3739940
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