mixiユーザー(id:7184021)

2015年11月22日06:43

3901 view

横須賀市さんぽ「平作・横須賀市立しょうぶ園から曹源寺」

横須賀市さんぽ「平作・横須賀市立しょうぶ園から曹源寺」

○「横須賀市立しょうぶ園」(阿部倉町19)
JR衣笠駅前からしょうぶ園循環バス(1時間に2便)に乗りしょうぶ園で降ります。バス停の先に「横須賀市立しょうぶ園」があります。大楠山の麓の3.8ha のしょうぶ園では、江戸系・肥後系など421 種14万株のハナショウブが栽培されています。スイセン(1万株)シャクナゲ(1,350 株)、フジ(250 本)、ツツジなど四季折々の花も楽しめます。9:00〜19:00、4月〜6月入園料有料。

○「阿部倉諏訪神社」(阿部倉町26)
しょうぶ園から北に向かうと、道路左下に「阿部倉諏訪神社」があります。江戸時代の下平作村には上諏訪社と下諏訪社の2社があり、上諏訪には松の老樹が、下諏訪には樫の古樹があったと『風土記稿』は伝えています。阿部倉の鎮守でもある諏訪社は松のあった上諏訪社(諏訪神社)の方で、この松は七不思議のひとつの「相生の松」があり、江戸時代末の安政年中(1854〜60年)に枯れたといいます。この巨木の枯れたのを惜しんで、関口佐兵衛治が明治22年に「帝釈天王奉賽碑」を建てました。
【阿部倉諏訪神社の庚申塔】
境内に2基の庚申塔があります。

○「阿部倉七不思議の碑」(阿部倉町29)
阿部倉諏訪神社のすぐ西、阿部倉公民館前に石塔群があり、諏訪の湯道標・庚申供養搭・馬頭観音供養搭と共に、右から二番目に「阿部倉七不思議の碑」があり「相州三浦郡阿部倉村七不思議」と彫られています。阿部倉七不思議とは、〔誠世料蠕絃勝↓向山の南面の月、E鯔椶猟けむり、づ鬚梁瑤侶屐↓ゲ野の勝手水、ε鯔椶留⇒枩弌↓平山の片葉の葦、です。
【阿部倉公民館近くの庚申塔】
阿部倉公民館の先を木古庭方面に少し下ったところの道端に、2基の庚申塔があります。

○「阿部倉温泉(湯の沢旅館)」(阿部倉町32)
阿部倉公民館から道標に従って進むと、高速道路に面した高台に一軒宿の「阿部倉温泉」(湯の沢旅館)があります。天保12年に出された『新編相模国風土記稿』には、平作川は源を阿部倉の湯の沢に発するとあります。阿部倉七不思議では、朝煙・ほたる・陰陽石と3 つが取り上げられています。この川のほとりに諏訪の湯があったものと思われ、この湯は湯の沢温泉ともいい現在の阿部倉温泉の前身になります。湯の沢旅館に日帰りで訪れる場合は、必ず事前に電話で予約し昼食か休憩を付ける必要があります。三浦半島の温泉としては最も歴史が古く、三浦一族の隠し湯といわれました。阿部倉温泉については、次の話が伝わっています。
《ある年のこと、衣笠城の城主三浦大介義明は、三浦三崎の海南神社の境内で行われた鶴の闘いを見物に行った。そのとき義明は傷ついた二羽の鶴を憐れんで衣笠城に連れて帰って手厚くいたわってやった。傷ついた鶴は毎朝かならずどこかへ飛んでいって、昼になると帰ってきて日ごとに元気を取り戻していった。番人は飛び立つ鶴がどこへ行くのか跡を追いかけていった。鶴は小さな池に舞い降りて池の水を全身に浴び、数百m離れた清水の水を飲んでふたたび飛び立った。それを半月ほど続けた鶴の傷はすっかり治って元気を取り戻した。番人からこの話を聞いた義明はその池と清水を調べさせてみると、この池の水はあたたかく、清水の水は冷たく澄んで傷によく効くことがわかった。義明は村人にもこの水を使うことをすすめ「湯の花権現」を祀り「鶴の井」と名づけて大切にしたという。これがいまの阿部倉温泉である。》

○「妙蔵寺」(池上4-7)
阿部倉諏訪神社まで戻って、左折して東方に向かうと「妙蔵寺」があります。詳細不明。
【妙蔵寺の庚申塔】
妙蔵寺の参道階段の右側林の中に2基の庚申塔があります。

○「大明寺」(衣笠栄町3-77)
妙蔵寺からバス道路を東に向かうと、三浦高校の北東に「大明寺」があります。大明寺は幾度かの不慮の災害で記録類が失われ、室町時代の寺史についても徴すべき資料はほとんど残っていません。
【太田資康の墓】
本堂裏手には、太田資康の墓と顕彰碑があります。資康は、江戸城を築いた太田道灌の子で、三浦道寸義同の娘を妻としていたことから、道寸を助けて北条早雲と戦い、永正10年(1513)に戦死して大明寺に葬られたと伝えられています。ですが資康の歿年には諸説があり、すでに永正7年に嫡子資高が太田大和守を名乗ることなどから、資康の三浦での討死を否定する説があります。

◎『平作七坂』
横須賀市平作には十指に余る坂があり、それらには名前が付けられています。土地の者は名を聞けば場所がわかり重宝したといわれます。主な七坂は「平作七坂」といわれています。‥素肋(てんまば)坂、⊃景識匣筺↓おんじ坂、い△瓩篋筺↓ヌ伝寺坂、δ晃渭査筺↓Ы找郎筺△任后8兎(浦賀道)の風情は既にないものの、平作七坂といわれた坂は僅かに古道の面影を残しています。

○「カヤスの森美術館」(平作7-12)
大明寺からJR横須賀線脇の大橋まで戻り、南に向かうと右手に「カヤスの森美術館」があります。カスヤとは、粕谷家のことでしょうか。
【伝馬場坂】
カヤスの森美術館から大橋まで戻り、すぐ左手の坂を上り頂上から池上、阿部倉へ向かう坂が「伝馬場(てんまば)坂」(平作七坂の一つ)と呼ばれています。坂下に、伝馬場つまり継ぎ立て場があったのでその名が付いたようです。江戸時代には大橋わきに茶店があり、今なお「伝馬場下」という屋号を持つ家が残っています。
【伝馬場坂上の庚申塔】
伝馬場坂の坂上近くに、庚申塔があります。右の板碑型は寛文11年(1671)、中央は元禄8年(1671)年の銘があります。

○「福泉寺」(平作7-15)
伝馬場坂の坂上から東に下って行くと、カヤスの森美術館のすこし南に「福泉寺」があります。詳細不明。
【新兵衛坂】
福泉寺の裏手の坂は「新兵衛坂」(平作七坂の一つ)と呼ばれています。宝暦年間(1751〜63)近くに新兵衛という人が住んでいて、代々新兵衛を名乗る家だったそうです。今の坂はもと福泉寺の境内で、昔の坂は坂下から竹林を通りかつての大円寺前に出たといいます。

○「平作神社」(平作6-7)
福泉寺裏の道を南西に歩くと「平作神社」があります。かつて平作には、駿河坂の天照皇大神宮、竹林の聖真子権現、石井の白山社と御嶽社、伝馬場の諏訪神社など多くの神社が祀られていました。ところが大正2年の一村一社の政令により、統合をよぎなくさせられ衣笠神社に合祀されました。戦後の昭和23年に、平作にあった神社をあわせて「平作神社」が設立され、昭和32年現在地に移されました。
【おんじ坂】
福泉寺裏から平作神社の前まで今歩いてきた坂は、「おんじ坂」(平作七坂の一つ)と呼ばれています。明治の初めごろに、この坂の途中に石屋を営むお年寄りがおり、村人たちはお年寄りを「おんじ」と呼んでいました。昭和40年ごろまでは道幅も狭く、両側から竹や草が生い茂った小道で面影がありました。

○「大蔵寺と瘡守稲荷」(平作5-13)
平作神社の裏手の道を南西に上り、突き当りを少し下ると右手に「大蔵寺と瘡守(かさもり)稲荷」があります。天文 21 年(1552)日善が明登山麓に草庵をつくり道場としたのが始まりで、第10 世日性が江戸の疱瘡流行を機に笠森稲荷と称し妙天王を勧請し、厄除け稲荷として祀りました。寛政年間、浦賀の岩男浪磯吉という三浦相撲の力士の病気快気のお礼参りが、「瘡守稲荷」となりました。
【大蔵寺のタチバナ】
大蔵寺本堂の手前に「大蔵寺のタチバナ」があります。京都御所から譲り受けたタチバナの実から育てた木で、香りがよいといいます。樹高7.0m、幹周り1.22m。
【あめや坂】
大蔵寺から東方に下ると、平作6-5〜10の坂は「あめや坂」(平作七坂の一つ)と呼ばれています。明治の中ごろまで、頂上近くにあめを作る家がありました。あめ屋はいつの間にかなくなりましたが、明治の末に引っ越して来た人の家を「あめや」と呼び始めたそうです。
【駿河坂】
あめや坂を南に向かうと、平作から寺山・大楠山への上り坂は「駿河坂」(平作七坂の一つ)と呼ばれています。鎌倉時代に三浦駿河守義村がここを通ったとか、駿河坂吉衛門という人が住んでいたとか、諸説があります。今は坂の全体を駿河坂と呼びますが、本当はその三分の二は陣ケ原、残りが駿河坂で、付近まで車が通れる広い道路なのは戦時中、寺山に砲台が築かれていたからといわれます。

○「妙伝寺」(平作6-16)
駿河坂の東方に「妙伝寺」があります。
【妙伝寺坂】
妙伝寺横の坂は、「妙伝寺坂」(平作七坂の一つ)と呼ばれています。墓地裏までの100m、道幅は参道を除いて今でも1.5mほどです。貴重な雑木林が残り一服の清涼の地といえます。かつて衣笠村にひとつしか小学校がなかったころは、伝馬場(てんまば)や鳥井戸の子供たちの通学路でした。昔、寺の前は入江のため字石井のほうへ橋が架かっていたそうです。そこで寺側を「橋本」、石井のほうを「橋先」と呼ばれました。

○「大光寺(かご寺)」(平作1-26)
妙伝寺裏の坂上からすぐ北に「大光寺」があります。元亨元年(1321)の創建で、大明寺末32ヶ寺のうち主要五山の一つ。本堂には本尊の一塔両尊像、日蓮上人像、三十番神、鬼子母神など多くが安置されています。格天井には花や鳥、動物などが描かれ、左右の天井からは駕籠がつるされていて「かご寺」とも呼ばれます。平作で唯一梵鐘のある寺です。
【長五郎坂】
大光寺から東に城北小学校まで下ります。さらに東方に上る坂は「長五郎坂」(平作七坂の一つ)があります。長五郎坂は二つあるといわれ、一つは城北小学校の裏門近くから東に衣笠病院へ行く坂、もうーつは駿河坂方面から字郷山(ごうやま)、石井、小ケ谷(こげえと)を経て平作2-10と12の境から始まる坂です。この二つの坂道は、頂上近くで合流し衣笠病院前に出ます。坂上の旧家・三堀家の先祖に長五郎という人がいて、代々その名を受け継いだといいます。

○「光心寺」(衣笠栄町1-51)
衣笠病院から北に向かうと、はまゆう会館の左側に「光心寺」があります。
【軍艦比叡鎮魂碑と軍艦比叡戦没者供養塔】
本堂右手に「軍艦比叡鎮魂碑と軍艦比叡戦没者供養塔」があります。戦艦比叡は、大正3年8月4日横須賀海軍工廠で竣工した金剛型戦艦の2番艦で、昭和17年11月13日第3次ソロモン海戦にて沈没しました。この比叡を鎮魂供養する碑が2基並んで光心寺に建立されています。
【光心寺の庚申塔】
境内入口右手、墓地入口に7基の庚申塔があります。

○「法塔十字路の題目塔」(衣笠栄町1-69)
光心寺前の道を東に向かうと、平作川の北側、法塔十字路の北東角に2基の石碑があります。右側の碑は「法塔十字路の題目塔」といわれ、2mを超える角柱の石塔で、台石が道標になっており「東浦賀、南三崎、西鎌倉、北横須賀」と刻まれています。「天明元歳辛丑(1781)十月」の銘があります。左側の発願霊場の碑は、慶応元年(1865)の建立です。

○「公郷神社」(公郷町2丁目)
法塔十字路からバス道路を横切って東に向かうと、右手に「公郷神社」があります。
【公郷3丁目の庚申塔群】(公郷町3-102)
公郷神社の前の道路沿い、民家の駐車場に「公郷町の庚申塔群」があります。庚申塔8基が並べられていますが、どれも白いカビに覆われて文字の判読ができません。説明板によると、一番左のものは市指定文化財で「帰命山王庚申大権現」と書かれ、寛永16年(1639)に造立され横須賀市最古の庚申塔です。

○「曹源寺」(公郷町3-23)
公郷神社の前の道を北に向かうと、突き当りに「曹源寺」があります。寛永5年(1628)、代官長谷川七左衛門長綱が薬師堂跡に再建したものです。元々の宗元寺は天平年間(729〜749年)に行基によって創建されました。三秀山宗元寺といったそうです。聖武天皇が諸国に国分寺を建てた頃、久郷の地の古東海道に面した一町四方の広大な寺域に土塀を巡らし、法隆寺様式の壮大な伽藍が毎年のように次々と建てられました。鎌倉時代までは、創建以来の伽藍がそのままあったと伝えられ、源頼朝が神馬を奉納するなどもあったとのことです。しかし、1333年に元弘の乱の兵火に遭い、薬師堂を除くすべてが焼失してしまいました。その後は衰退の一途をたどりました。天平年間に大規模な寺院を建立できたということは、平作川流域や周辺一帯を支配する有力豪族が存在し、中央政権に対して忠誠を誓っていたということだと考えられます。

○「妙真寺」(公郷町5-6)
曹源寺から東に向かうと、公郷中学校の西に「妙真寺」があります。応永元年(1394)の創建。過去帳に、元禄地震(1703)による6人の死者の記録あります。
【保存金并神金里共有金碑】
妙真寺の鳥居横に「保存金并神金里共有金碑」があります。土地の豪農・石渡家の12代賢素(けんそ・通称吉右衛門)が、宝暦2年(1754)に檀徒の篤志家から献金を受けて妙真寺の寺金(保存金)を創設し、その金を必要な人に低利で融通をしてきました。さらに、天明2年(1782)に神金里共有金を創りました。江戸から昭和までこれが続き、この共有金で里の人々は永い間助かってきました。
【妙真寺の庚申塔】
妙真寺の参道脇に2基の庚申塔があります。よく見ないと通り過ぎてしまいます。
【公郷町5-27の庚申塔】(公郷町5-27)
妙真寺から北方、バス道路を公郷トンネルへと向かうと、公郷トンネル手前の左側の駐車場奥の崖に、9基の庚申塔があります。

○「浄蓮寺」(三春町1-34)
公郷トンネル(歩行者用)を潜り北に向かい、京急線を過ぎて左折すると「浄蓮寺」があります。ここの寺小屋が豊島小学校の前身で、浄蓮寺入口に公郷学校跡の説明碑があります。また、浄蓮寺の前の道は浦賀道になります。
【飯岡助五郎の生誕地】
「天保水滸伝」で有名な飯岡助五郎(石渡助五郎)は、浄蓮寺隣りの三春町(当時は三浦郡公郷村山崎)で寛政4年(1792)に生まれました。大力があった助五郎は、名主の永島庄兵衛に相談し江戸に出て角力(すもうとり)になりますが、一年で廃業、上総国(千葉県)作田浜(現在の九十九里町)で漁師になります。やがて、この地から鰯(いわし)のたくさん獲れることで名高かった飯岡浜へ移り頭角を現します。力が強く侠気ある助五郎は漁師仲間で男を上げ、網元半兵衛の娘すえを妻に迎え船頭となります。この頃飯岡一帯に縄張りをもっていた銚子の五郎蔵の子分となり、博徒としても売り出し、やがて代貸しをするまでになります。また、義父の半兵衛の援助を受けて三浦屋という網元となり、文化5年(1809)には五郎蔵の縄張りのうち飯岡一帯を譲られて親分ともなります。博徒と網元という二足の稼業にくわえ、さらに十手捕縄も預かるという三足のわらじを履く親分となり、天保11年頃になると名実ともに関東でも指折りの大親分となり、九十九里一帯の大網元となっていったのです。このように故郷を出て、よその土地で活躍した助五郎でしたが、故郷を忘れず異国船の来航では三浦の地に思いを馳せ、公郷村名主の永島庄兵衛に対し、子分150人を引き連れてはせ参じましょうと、主だった子分の名を連ねた文化10年(1813)正月の日付のある手紙を送っており、助五郎の強い愛郷心をみることができます。助五郎はその後、安政6年(1859)4月14日69歳で天寿を全うしました。墓は、現在の飯岡町の光台寺にあります。飯岡町の玉崎神社には、助五郎の業績が刻み込まれた「飯岡助五郎之碑」が建立されています。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する