古戦場めぐり「長浜城と石田三成(滋賀県長浜市)」○「長浜城」(長浜市公園町)長浜城は天正元年(1573)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に、当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝
古戦場めぐり「賤ヶ岳の戦い(滋賀県長浜市)」◎『賤ヶ岳の戦い』「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」は、天正11年(1583)4月、近江国伊香郡(現滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で行われた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と織田家最古参の重臣柴田勝家との戦いです。この戦
古戦場めぐり「小谷城の戦い(滋賀県長浜市)」◎『小谷城の戦い』「小谷(おだに)城の戦い」は、天正元年(1573)8月8日から9月1日まで、織田信長と浅井長政との間で行なわれた戦国時代の戦いです。1570年の姉川の合戦に勝利した織田信長は、着々と浅井・朝
古戦場めぐり「姉川の戦い(滋賀県長浜市)」◎『姉川の戦い』元亀元年(1570)6月、織田信長は朝倉義景を討つために兵をあげました。朝倉氏と浅井氏は、強い同盟関係にあったため、織田信長が朝倉氏を攻めれば浅井氏も動きます。しかし織田信長は、それはな
古戦場めぐり「長享延徳の乱・鈎の陣(滋賀県栗東市)」◎『長享延徳の乱・鈎(まがり)の陣』「長享・延徳の乱」とは、室町時代後期の長享元年(1487)と延徳3年(1491)の2度に亘って室町幕府が行った、近江守護・六角行高(後の六角高頼)に対する親征で、六
古戦場めぐり「観音寺城の戦い(滋賀県東近江市)」◎『観音寺城の戦い』「観音寺城の戦い」は、永禄11年(1568)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦いです。支城の箕作城(みつくり
古戦場めぐり「比叡山焼き討ち(滋賀県大津市)」◎『比叡山焼き討ち』「比叡山焼き討ち」は、元亀2年(1571)9月12日、現在の滋賀県大津市の比叡山延暦寺で行われた戦いです。この戦いで織田信長は、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたといわれて
古戦場めぐり「壬申の乱・瀬田唐橋の戦い(滋賀県大津市)」◎『壬申の乱・瀬田唐橋の戦い』「壬申の乱」(じんしんのらん)は、天武天皇元年(672)6月24日から7月23日に起こった、古代日本最大の内乱です。天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)
古戦場めぐり「戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い(京都府京都市)」◎『戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い』「鳥羽・伏見の戦い」は、明治元年/慶応4年(1868)1月3日から6日、長州や薩摩の官軍と、新選組を含む旧幕府軍が戦った戦いで、戊辰戦争の緒戦となった戦いです。戦
古戦場めぐり「禁門の変・蛤御門の変(京都府京都市)」◎『禁門の変・蛤御門の変』「禁門の変」(きんもんのへん)は元治元年(1864)7月19日、京都で起きた武力衝突事件です。蛤御門の変、元治の変、元治甲子の変とも呼ばれます。時は幕末、ペリーが浦賀に
古戦場めぐり「関ケ原前哨戦・伏見城の戦い(京都府京都市)」◎『関ケ原前哨戦・伏見城の戦い』「伏見城の戦い」は、慶長5年(1600)7月18日から1600年8月1日まで行なわれた関ケ原の戦いの前哨戦です。会津征伐へと向かった家康は、伏見城に老臣鳥居元忠を守
古戦場めぐり「関ケ原前哨戦・田辺城の戦い(京都府舞鶴市)」◎『関ケ原前哨戦・田辺城の戦い』「田辺城の戦い」は、慶長5年(1600)7月19日 から9月6日にかけて、丹後田辺城(京都府舞鶴市)をめぐり起こった戦いです。広義の関ケ原の戦いの一環として戦わ
古戦場めぐり「山崎の戦い(京都府大山崎町)」◎『山崎の戦い』「山崎の戦い」は、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が、6月13日に摂津国と山城国の境に位置する山崎(京都府乙訓郡大山崎町)にお
古戦場めぐり「本能寺の変(京都府京都市)」◎『本能寺の変』日本史最大のミステリーといえば、邪馬台国・竜馬暗殺・本能寺の変のどれかが名前に上がります。そのくらい、様々な仮説が「本能寺の変」については語られています。本能寺の変は、天正10年(1582
古戦場めぐり「本圀寺の変・将軍足利義昭襲撃(京都府京都市)」◎『本圀寺の変』「本圀寺(ほんこくじ)の変」は永禄12年(1569)1月5日、三好三人衆らが京都本圀寺に仮御所を置いていた室町幕府15代将軍・足利義昭を襲撃したことによって生じた戦闘です。六
古戦場めぐり「治承寿永の乱・宇治川の戦い(京都府宇治市)」◎『治承寿永の乱・宇治川の戦い』「宇治川の戦い」は、平安時代末期の寿永3年(1184)1月、源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経とで戦われた合戦です。治承・寿永の乱の戦いの一つ
古戦場めぐり「平治の乱・六条河原の戦い(京都府京都市)」◎『平治の乱・六条河原の戦い』「平治(へいじ)の乱」は平安時代末期の平治元年(1160)12月9日、院近臣らの対立により発生した政変です。平治元年(1159)12月9日、源義朝と後白河上皇の近臣の藤
古戦場めぐり「応仁の乱(京都府京都市)」◎『応仁の乱』「応仁の乱」(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467)に発生し、文明9年(1477)までの約10年間にわたって継続した内乱です。応仁元年(1467)に起きたことから応仁の乱と呼ばれますが、戦
古戦場めぐり「保元の乱(京都府京都市)」◎『保元の乱』「保元(ほうげん)の乱」は平安時代末期の保元元年(1156)7月、皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変です。永治元年(1141)、治
古戦場めぐり「天誅組・鳥ヶ峰の戦い(奈良県高取町)」◎『天誅組・鳥ヶ峰の戦い』文久3年(1863)8月17日、尊皇攘夷派の土佐藩出身の志士・吉村寅太郎らが公家の中山忠光を擁して、天誅組として尊王攘夷派の急進的な志士約1000名が、倒幕の狼煙を上げるため幕
古戦場めぐり「信貴山城の戦い(奈良県平群町)」◎『信貴山城の戦い』「信貴山(しぎさん)城の戦い」は、天正5年(1577)10月5日から10月10日にかけて、織田信長に対して謀反を起こした松永久秀の居城信貴山城で行われた攻城戦です。信貴山城は落城し、松永
古戦場めぐり「太田城の水攻め(和歌山県和歌山市)」◎『太田城の水攻め』天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、徳川家康軍と羽柴秀吉軍の間で戦が起こっていた時、徳川家康は太田衆、雑賀衆、根来衆らを味方になるように誘い、『日本城郭大系』によると
古戦場めぐり「秋葉山の戦い(和歌山県和歌山市)」◎『秋葉山の戦い』秋葉山は、戦国時代に全国に名を轟かせた雑賀衆の砦、「弥勒寺山城」があった場所として知られています。天正4年(1576)、石山本願寺を攻めた織田信長は、本願寺方についた雑賀衆の鉄砲
古戦場めぐり「石山合戦・信長の雑賀攻め(和歌山県海南市)」◎『石山合戦・信長の雑賀攻め』紀州征伐(紀州攻め)とは、戦国時代(安土桃山時代)における織田信長と羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことです。一般的には、天正5年(1577)の信長による「雑賀攻
古戦場めぐり「龍門山の戦い(和歌山県紀の川市)」◎『龍門山の戦い』「龍門山の戦い」は正平14年/延文4年(1359)、龍門山頂にあった龍門山城で、南朝方・四条隆俊が3000余騎を率いて集結し、北朝方の畠山義深率いる3万余騎と激闘が繰り広げられました。戦
古戦場めぐり「大坂夏の陣(大阪府大阪市)」◎『大坂夏の陣』「大阪夏の陣」は大坂の陣の最後の決戦となり、戦国時代(安土桃山時代)最大で最後の戦いとなりました。天王寺、岡山に陣を構える豊臣方に対し、南方から徳川軍が押し寄せました。慶長19年(1614
古戦場めぐり「大坂冬の陣(大阪府大阪市)」◎『大坂冬の陣』「大坂の陣」は、慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」と、慶長20年(1615)の「大坂夏の陣」の総称で、江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いです。大坂の役とも称します。大阪冬の陣において
古戦場めぐり「石山合戦・天王寺の戦い(大阪府大阪市)」◎『石山合戦・天王寺の戦い』「天王寺の戦い」は、石山合戦の一環として天正4年(1576)5月7日に摂津天王寺(大阪府大阪市)で行なわれた、織田信長と一向一揆との戦いです。天王寺砦の戦いともいい