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2015年10月26日07:33

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ドイツ史(7)

「神聖ローマ皇帝に忠誠を宣誓してからでなければ教皇職には就任できない」この決まり
をオットー1世が定めた。これは神聖ローマ皇帝がローマ教皇よりも地位的に上なんだと
宣言したということである。まあ実際に統治するのは皇帝なんだから当然といえば当然で
はあるが、教皇であるヨハネス12世からすれば面白くなかった。

そこで今度は事もあろうに、あのベレンガーリオと手を組んで反乱を画策した。アホなの
か?いやまあこのヨハネス12世というのは相当なダメ野郎で、教皇でありながらあまり
にも我欲の強い人間だったようだ。

結果この反乱計画はローマ教会内部にも受け容れられず、ヨハネス12世は失脚、963
年オットー皇帝によりローマから追放処分とされた。だがしかし、オットー皇帝がローマ
からドイツに帰還すると早速ローマに戻り、後継のレオ8世を追い払って復位する。が、
すぐに964年5月に死んでしまう。

この死因が情事を交わした人妻の夫によって殺された、というから何ともはや。絵に描い
たようなバカ教皇だったのだな。念願のローマ皇帝の座を手に入れたオットー1世は、9
73年に死去した。

とまあ、これが神聖ローマ帝国成立のいきさつである。世界的には962年のオットー1
世即位が神聖ローマ帝国の始まりとされてるが、実はドイツだけはそうではなくて、フラ
ンク王国のカール大帝のローマ皇帝即位を始まりとしている。

しかしやはり空位期間もあるし、そもそもフランク王国はフランスから興った国なので、
ちょっと無理がありすぎるよな。こんなことをずーっと言い続けているから、フランスと
度々衝突してきたわけだ。しょうがねえやつらだ。

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