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2015年10月16日01:39

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生体反応

生命は生命として存在するに該り、存在する事にすら順応しきれていない。
だもので個体により様々な生体反応を起こす事になる。
順応していないのだから、症状は主に不具合症状に繋がる事が圧倒的に多いだろう。

ウイルスや細菌等の病気や疾患も広く見て生体反応なのだけれど、この日記に於いては人間の基本装備のみについて書く。
たとえば、パニック障害や躁鬱等は現代では病苦、疾病にされていけれども、生きているだけで表出する一見理不尽な現象について。

これらは単なる存在するに該っての生体反応だとぼくは見ている。
生体反応が何も表出されないものは居ないだろう。
生体反応の無いところに生命は無いと言える。
これらの反応はいつどこで表出するか、もしくは生まれてからずっと表出し続けるのか、自覚しているものか、それは誰にもわからない。
望む望まぬ問わず表出する。
なにしろこの世界に生命として存在する事にすら順応していないのだから、摩擦なり抵抗なり不和なりが生じるのは必然の事。
この必然の事に疑を唱えたところで、簡単に言えば直らない不具合を抱えているので、そこにこだわった所でどうにもならない。
別にこだわったって良いけれど、こだわる事によって苦痛は増大するだろう。
憎しみを以て憎しみに接するようなものだ。

先日書いたのだけれど、復讐や報復は、実は憎しみからではなくとも可能なのだ。
憎しみを以て憎しみに接せずとも、復讐や報復は可能だ。
また、復讐や報復をせずとも、憎しみを以て憎しみに接する事も可能だ。
殆どの人が復讐を誤解している。
復讐は出来るのであればするべきだ。
未完で燻っていた物語を完結させる事だ。
ずっと残っているだろ、ずっと復唱している筈だ、ずっとずっと。
そんなものは早く終わらせるべきだ。
固定観念の強いのも人間の特性なので、こうは言っても固定されたものを揺さぶる事すら難しいだろうけれど。

更に余談で。
「色々な人が居て良いんだよ、色々な考え方があって良いんだよ」
と言う、如何にも良さそうな考え方。
これ「殺意の下、その殺意そのままに行動し、それが善だと考える人が居ても、やってしまう人が居ても良いんだよ、君がそうではなくとも良いんだし、ぼくがそうであっても良いんだよ」と言っているんだよね。
また「いや、そうではない。それはまた別」と言う考え方があったとすると、それはそれで、色々な考え方があっては良くない事になり、更に「〜良いんだよ、と言いながら、ある種の都合の悪い考え方は別にして否定する事の考えも良いんだよ」と最終的には自己弁護をするための発言だったりする。
そもそも、別に誰だか知らない者に「良いんだよ」なんて言われる筋合いは無い。
が、現代人は、誰だかも知らない者に「良いんだよ、大丈夫だよ」と言われたいらしく。
馬鹿が。
全然良くないし、大丈夫じゃない。

話を此処から生体反応に繋げられる。
この「良いんだよ、大丈夫だよ」と言われたいものこそ、生体反応から来る不安によってもたらせられている。
生命はそもそもが不安定なのだ「不安」ではない、不安「定」不安で定まっている。
「不安で定まっていない」ではない。
それは頭痛が痛いと言っている事になってしまう。
「安定」を紐解けばわかる「安んじて『定まっている』」である。
「安んじて定まっていない」ではない。
それをこんな「良いんだよ」ごときで抑え込んでしまえば、更に苦痛や不安を増大させるだろう。
こう言った一見気を紛らわしてくれる不安を取り除いてくれる様で、全く逆効果、目を背けるためだけ、背けてしまう事で、より生体反応が酷くなるだけだ。
目を背けた時は、そこにあったものが見えなくなるからな。
けれども昼の星と同じで見えなくともそこにあるんだよ。
夜になればまた見える。
もともと、ずっとそこに在るのだから。

もともとずっと在るものとして生体反応も受け止められたらどうだろう。
それはそもそもが不具合なので、不具合を不具合として感じ取れてしまった神経や心性があるなら、それは苦痛でしかないだろう。
けれども、それを受け止められたらどうだろう。

生体反応で死ぬ事は死と言う生体反応が訪れない限り無いと思われる。
何故なら生きる強さによる不具合なのだから、生きる事そのものを停止するには至らない、むしろ、苦しみながら苦しみながらずっと強く生きて行く事だろう。
社会にどれだけ適応していずとも、収入が得られずとも生きる事に執着していて、ニートでもヒモでもなんでも生き続けている事実は、強く生きている様(さま)そのものだろう。
ただし、この苦しみを本気で止めたいと思った時は、生体反応の起きない心停止を望むだろう。
自殺。
これ以上生きない、と決めたら。

生体反応を受け止めたら。
意識的に自覚的に認識的に。
生体反応自体の痛みや苦しみは変わらないな。
これはもうどうしようもない。
個々で表出の仕方は異なるけれども、無い人間は居ないだろう。
ただ、その生体反応を見る事が出来るようになると、つまり、内的な自身、自己を見る事が出来るようになる(自分の中で何が起こっているか)と、外の世界の見え方も変わってくる。
要は、復讐は憎しみを以てのみ行われているわけではない、と言う捉え方も出来るようになる。
もともと別の誰かが考えたり発したものだけの中で、それをまた自分が然も考え出したかのように捉えている固定された観念の中で苦しんでいる時とは、世界の見えようが異なる。

眠い生体反応が出てきたのでまた。
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