安全に守られていたお寺という空間からの脱出とそれに伴う渦との格闘、そしてようやく築き上げることができたその足場、土台がたちまち急激な流れに襲われて再び壊されてゆくプロセス……。
もう元には戻れないので、先に進むしかないのだけれど、ここまでガイドをしてくれていたパートナーと別れて前に進むとなったとき、まだ自分一人ではどちらの方角へどのように歩いてゆけばよいのかが皆目、見えてこなかったのでした。
諂曲模様の渦に絡みとられ、うずくまって身動きできない状態からようやく抜け出ることができたところなのに、早くもさらなる一歩を踏み出せというのだろうか……導き手だったサヴィタの手を早くも手放せというのだろうか????? それにはまだこころの準備ができていない……早過ぎる、といった心境で途方に暮れ、足踏みばかりを繰り返すありさまでした……
昨日紹介した箱庭シーズン2の3枚目(通算19回目の作品)が生まれてきたのは、88年の7月末のことです……実は、それから箱庭づくりはしばらくの間ぴったり止まってしまい、再開するのは2年半後の1991年2月のことになります……それは、しばらくの間、箱庭を離れ、プーナに赴き、瞑想やセラピーなどに深くコミットメントしてゆく時間が増えたからなのですが……。
シーズン2の3枚目の箱庭が生まれてきたその直後、再びよれよれとなってしまったぼくは、心配してくれた家族や友人たちの力添えを得て、その秋再びインドを訪れることができました……インドを訪れるのは、テイクサニヤスをした1979年から9年ぶりのことであり、『さがしてごらんきみの牛』をOSHOに届けるために携えていったのです。
そしてこの88年の9月から12月にかけてOSHOが一連の禅の講話を行っていたプーナ滞在中は、ミスティックローズやノーマインドなどに本当にトータルにエネルギーを注ぎ込みました。するとその全一な瞑想体験を通して、それまでどうしても動かなかった深い条件づけが大きくゆるみ、サニヤシンとしての歩みに決定的な転換をもたらされたのです。それはまさに首輪が外れるような体験の瞬間であり、そこで初めて実質的なサニヤシンになれたと感じられたのです……鋭い眼差しの恐ろしい OSHOは消え、ニコニコと微笑む親しみやすいOSHOが現われました……これがOSHOとのサード・コンタクトです。
あるいはこれは、87年の9月に16回目の箱庭で起こった陰陽のミーティング(ピエロの男女によって表されている)が、88年の秋のプーナ滞在中に、瞑想へのエネルギーの傾倒を通してようやく身体レベルにまでしっかり根づいて降りてきたと言ってもよいし、19回目の箱庭に立ち現われていたように、老賢者の傍らにいる花嫁との出会いのプロセスに移行したと言ってもよいかもしれません。
実際、このときの瞑想の深まりと条件づけからの解放のプロセスに沿うようなかたちで、その後、現在に至るまで27年以上も生活を共にすることになる旅の仲間、ブミカとの出会いが起こったのでした。
このプーナでのブミカとの出会いは、お互いがそれぞれに瞑想の中に深くコミットメントしていたときの出会いだったというのが、ここまで長く続いている理由のひとつかもしれないと思います……。
それにしても箱庭に現われた和風の花嫁姿のフィギアというのは、ドイツ滞在の経験もある、ストレートで日本人離れしたところのあるブミカには少し似合わないイメージなんのですが……もしかするとかつてはストレートだった古代の日本女性のアーキタイプに近いのかもしれません。
とにかく、京大の箱庭研究室で老賢者と和風の花嫁が現われてきたときには、こういう新し出会いが起こることなど、まったく予想もつかないことでした。 箱庭のように湿った土に触れることを通して身体感覚と密接なつながりのあるイメージの変容が行なわれるセラピーにおいて、深層イメージに変化が起こるときには、必ず、それに対応する外界での変化が引き起されるというのは、ほんとうに不思議なことです。
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