オーラソーマのクイントエッセンス「キリスト」は、ただひたすら歩くウォーキング・メディテーションのサポートに最適のエッセンスだけれども、このキリストの働きによって、光が地上に受肉すると言われている。光とはまたロゴスのことであり、ことばが受肉すると言い換えることも可能だ。ことばを超えた微細な領域のシグナルが、粗いことばの領域にしんしんと降りてくるのである。
光の受肉、ロゴスの受肉とは、わかりやすいことばでいうと「天命が成就される」ことでもある。そして天命が成就されるのは、今ここをおいて他にない。またそれは、私という存在しない一点が、過去から未来へと流れる果てしないタイムラインのなかの今にあり、ふさわしい場所にあって、適切なことが起こりつつあることを見守り続けているという覚へと通じてゆくものだ。
この私と呼ばれている空の場、ゼロ点を通して、無量の光が、無形のロゴスが、無尽の天命が、今ここにおいて受肉をし、地上に降りてくる。天命とは、尽きることのない無限のいのちのことであり、そしていのちはつねに限りなく多様なかたちへと向かい、千とひとつの喜びへ、祝いへ、祭りへと花開こうとしている。
まさにキリストとは、ゴルゴダの丘の上で磔になった歴史的イエスのことを指しているのではない。キリストとはまさに「あなた」がた……様々な名前で呼ばれている無数のゼロ点、久遠のいのちが顕れである空なる場から溢れ出てくる輝きを言う。
昨日購入した内田樹編『日本の反知性主義』は、まさに魂の籠った珠玉の名作だと言える……なんという巧みな言い回し、奥深い余韻、喚起するインスピレーションに満ちた文章の発露であることだろう。たとえば、内田氏は、魂が打ち震える現象について、このように語っている。
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『ひとが「ふるえる」のは、自分が長い時間の流れにおいて、「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなしている」という実感を得たときである。「いるべき」ときも、「いるべき」ところも、「なすべき」わざも、単独では存立しない。それは、死者もまだ生まれぬ人たちも含む無数の人々たちとの時空を超えた協働という概念抜きには成立しないのである。“もう存在しないもの、まだ存在しないものとたちとの協働関係“ というイメージをありありと感知できた人間のうちにおいてのみ、「私以外の誰によっても代替し得ない使命」という概念は受肉する』
内田樹編『日本の反知性主義』035頁より。
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ここにはフラットランド化した非二元のことばを一挙に吹き飛ばしてしまうほど力強いことばの響きがあり、古来より仏教が「過去現在未来のあらゆる諸仏諸菩薩に祈りを捧げ続けてきたこころに響き合うものが息づいている。
生きたさとりには、こうしたタイムラインの感覚がかならず息づいている……「われと衆生とみなともに仏道を成ぜんことを」と願いつづけてきた菩薩たちの夢の継承がかならずそこにある。
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