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2015年08月26日07:36

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愛は、“かなし”と読まれた

 愛という漢字を、古代の日本人は、“かなし”と訳したのだそうです。この語感は、愛を「アイ」と発語するよりも、はるかに深く「愛」に込められている何かを身体感覚にピタリと沿うようなかたちで受容している感じがします。

 河合隼雄さんが、キリスト教文化圏の深層意識にある「原罪」という概念に対して、日本人のこころの深みには「原悲」とも呼ぶべきものがあると指摘されていることとも関連しているように思います。

 個人的でセンチメンタルな悲しみではなく、個人を超えた、センチメンタルではない果てしなく深い悲しみ、仏教が古来より大悲と呼んでいるものに通底してゆくこの感性こそが未来の扉を開ける秘密の鍵となります。

 ここにこそ真の日本の魂へと回帰してゆく道が開かれています……恐れや憎しみ、また通常の悲しみや怒りの層を超えて、さあ、もっと深く、もっと深く、もっと深く、、

 今日の日記は、竹内敏晴氏の『ことばが劈かれるとき』に触発されたささやな覚え書きです。……
 
  以下、『ことばが劈かれるとき』竹内敏晴 より

 この漢字を古代の日本人が「かなし」と訳したのも、まことにみごとに正確だったと言えるだろう。柳田国男によれば、「かなし」とは本来不幸とは関係のないことばで、ただ心に切実な衝撃を受けた状態だという。いとしいのも、つらいのも「かなし」である。とすれば愛という漢字にもっともふさわしい語感であるわけだ。これに比べて「アイ」「アイする」などとぶっきらぼうに読んでいる現代の私たちの、なんと鈍感なことか。そこには「アイ」という音を意味づける、日本人としての、なんの呼吸も語感もない。からだと心の動きの感触がない。愛する、ということばは、当分のところ、日本語として成り立たぬに違いない。

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 「愛」という言葉は、聖書を翻訳するさいに訳者が仏典より借用した翻訳語であるというのは事実なのですが、ここにとりあげている語感というのは、それとはまた別のことがらです…… 「愛」あるいは「哀」は「アイ」と発音される共通性をもつことばなのですが、この漢字の象形文字としての漢字の成り立ち、組成そのものから竹内さんは解き明かしていっているのです。

 「愛」という漢字を、「かなし」という和音で受け止めた、平安時代の日本人の感性のことがらです……。

 だから順序が逆なのではなくて、「愛」という文字、あるいはことばの成り立ち(このあたりはややこしくなるので省略しますが)、を身体感覚に沿ってとらえようとしたときに、生まれてくる洞察を、竹内さんは語っているだけです。

 むしろ「愛」を「アイ」と読むところにこそ、それまでの日本的な感覚からの断然があると見る方が、よいのではないですか。そして、それがキリスト教の解釈と連動しながら行われたというところは興味深いところです。

 僕自身の身体感覚のなかでは「かなし」という音の響きは、かなり正確に「愛」という漢字を古代の人々が「かなし」と置き換えたフィーリングに近いような気がしています。「切ない」ということばは、その一部を含んでいるけれども、「かなし」が含んでいるものすべてを包摂はできていない感じがします。

「かなし」には「切ない」にはない、無限の広がりを予感する感覚があるように思われるのです……。

  それから方言のもつ、ことばの身体性については、竹内さんもすごく大切なことを語っていて、いわゆる近代日本が国家を形成してゆく過程で生み出された標準語というものが、方言を解体し、日本の身体性に密着したことばへのリンクを壊すことを通して、ことばと身体とのリアルな感覚を抑圧する装置として機能してきたといった意味のことを指摘していますので、また別の日記でとりあげておきたいと思っています。

 東北の方言である「めんこい」「めごい」というのはなんだか響いてくるものがありますね……。

 ひとつは標準語による感じる身体へのアクセスブロックという問題……そしてもうひとつは近代の体育による、身体の統制、コントロールの問題が重なり合っている感じがしますね。 OSHOのアクティブ瞑想やジベリッシュ瞑想というのは、ことばと身体に架せられたそうした近代システムの呪縛を振り払うための、もっとも有効で基本的なメソッドのひとつだと言えると思います。


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