ぼくが当時のパートナーだったサヴィタの夢に現れたOSHOに導かれ訳した『一休道歌』には、サガプリヤが序文を寄せています。OSHOは『一休道歌』最終章Q&Aのなかで、男女の関係性こそが最良の公案だと言っています。
存在する最良の公案は愛だ、関係性だ
それは、ここではそのようにして使われている
関係は、手がかりのない謎だ
いかにあなたがそれを操ろうとしても
それを操ることはけっしてできない
それを操ることができた者はひとりもいない
それは、ただ当惑させつづけるように仕組まれている
あなたがその神秘を解こうとすればするほど
それはますます神秘的になる
あなたがそれを理解しようとすればするほど
それはますますとらえがたくなる
それは、禅マスターが弟子に与えるどの公案よりも深遠な公案だ
というのも、彼らの公案は瞑想的だからだ……
ひとは独りでいる
私があなたがたに関係という公案を与えるときには
ことははるかに複雑だ
……というわけで、OSHO禅にとっての最大の難透の公案は、男女の関係性ということになるようです(笑)……、確かに、サニヤシンになってから、ずっとこの難透の公案とがっぷり四つに組み続けてきたのはほんとうです……。
さて、ではマキシムセッション後のサガプリヤのグループ体験について、再びmixiの日記から転載してみます。
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ブッダ・ネーチャー
マキシム・セッションの流れに乗って、ふたりは翌日からスタートするサガプリヤの“ブッダ・ネーチャー”というグループに参加することにしました。これは日本人のために設けられた5日間のグループでした。ぼくにとってこれは何年ぶりかのグループだったのですが、サニヤシンになってから全身全霊でコミットした初めてのグループになりました。まるで日本の四季が巡ってゆくかのように、グループは様々な風景を見せながら、自在に流れてゆきます。
次の瞬間に何が起こるかは、サガプリヤも含めて誰にもわかりません。どこまでも静かに、それでいて着々と、雪がしんしんと降り積もってゆくかのように、グループ状況はゆっくりと深化してゆきます。はでなカタルシスもなければ、ドラマチックな展開も起こりはしないのに、トロ火で野菜を煮込んでゆくときのように、絶妙な味が参加者ひとりひとりにしみ込んでゆきます。
グループの大まかな道筋は、対の関係性、とりわけカップルの間で起こる葛藤や問題を、内なる異性の投影(プロジェクション)という見地へと徹底的に引き戻してゆくことからスタートします……。マインドが無意識的、機械的にとってしまうイエスとノーのリアクション・パターンを離れ、ノー・マインドから湧き上がる未知の感応(レスポンス)へといかにシフトしてゆくか……。
ぼくたちが内なる男性や女性の問題を、どれだけ無意識のうちにまわりにいる他者に投影しているか、そして、それに気づくまでどれだけ苦しい堂々巡りを繰り返さなければならないか……サガプリヤを通して、OSHOのメスが優しく、そして鋭く切り込んできます。
ノー・マインドへの鍵が無数に散りばめられているグループだったけれど、なかでも他者からの拒絶という状況に取り囲まれるとき、そのノー・マインドは、どのような行路を取るのだろうか? といったむずかしい課題をサガプリヤ自身が演じて見せてくれたシーンは、いつまでもぼくのハートに残ることでしょう。
自らの体験をシェアしようとして他者に近づいてゆくのだけれど、至るところで拒絶に合うとき、ノー・マインドは、どのような進路を取るのだろうか? 一瞬一瞬の身体感覚に十全に醒めながら、拒絶という乱気流にも身を任せ、嵐にもまれる木の葉のように乱舞する……そして、一見すると、何一つ創造的な出会いや関係が起こらないまま、サガプリヤは着座したのです。サガプリヤの動作そのものが限りなく美しかったけれど、ぼくのハートを打ち震えさせたのは、5分ばかり続いたそのシーンの後で、ぽつりとつぶやいたサガプリヤの言葉でした。
「さて、私は私のエネルギーをシェアしたでしょうか?」
その言葉を耳にしたとたん、またしても、ぼくの深い深いところが打たれ、涙がこみあげてきたのです。溢れるエネルギーは、ただただ溢れ流れてゆくのです。雨粒で重たくなった雲が、大地の上に、たとえ池や海のような窪みがなくても贈り物としてその雨をいたるところに降り注いでゆくように……
また一対一の関係ではなく、教室のような集団的な関係のなかで、味気ない対立関係に陥りやすい教師と生徒の関係をダイナミックな創造的交流へと変容させるアートを伝えるために編み出された「スクール・シチュエーション」では、サガプリヤもなかなか苦心した様子でした。この状況がうまくシェアできなかったために、その夜、サガプリヤは泣いてしまったそうです……。
ぼくたちのマインドは、優等生的イエスか反抗的なノーのどちらかにいかにたやすく分裂してしまうことでしょう。それを解く鍵として「ギャップ」という言葉がキーワードになりましたが、この「ギャップ」という言葉は、ぼくにとって「暗闇」というキーワードと並んで、引き続きその後のプーナ滞在の焦点となっていったのでした。
他にもたくさんあるのですが、そのひとつひとつを書き記すことは到底できません。ただ、グループの最後に、僕の質問に応えてサガプリヤが話してくれた物語は、僕自身にとっての深い手がかりになるだけでなく、多くの日本のサニヤシンにとっても参考になるかもしれないので、簡潔に綴ってみることにします。
ぼくの質問は、なかなか触れることができない「暗闇」と「悲しみ」についてのものでした……。サガプリヤは、その問いに直接応える代わりに、次のような彼女自身の過去生物語をかなりの時間を割いて参加者全員の前でシェアしてくれたのです。
かつてアトランティスやエジプトのような場所に、このOSHOコミューンのような意識の実験場がありました。サガプリヤは、当時も今と同じようにそうしたスクールでワークをしていたのですが、そのワークに従事する者たちは異性との交わりを厳しく禁じられていたのだそうです。何生ものあいだ、そうした半身の人生を繰り返した後、生の全体性を満たすために、〈存在〉は、彼女をその対極の生へと送り込んだのでした。
こうしてある時、彼女は日本に生を受け、遊女として生きることになったのです。そのとき彼女は独りのサムライに恋をするのですが、そのサムライは、誤って同僚を殺めた責任を感じ、切腹をしてしまいます。そしてそのときの悲痛な思いはサガプリヤの魂の奥に刻み込まれ、今生での恋愛関係に再現されてきたといいます。
サガプリヤもOSHOと恋人のはざまで長い間苦しんだとのこと……。その悲しみに遭遇し、その悲しみを超えて、OSHOのなかに本当に飛び込むまで、彼女は狂気とも呼べるステージを通過しなければならなかったそうです。
「OSHOという生の全体性を生きたマスターのもとでのみ、初めてその深い魂の裂け目は癒されてゆきます……私たちがOSHOという真のマスターに出会えたことは幸運です」とサガプリヤは語ります……。
男性の身体を持っているぼくには、そういった女性的な側面を意識化するのは少々むずかしいだろうけれども、やがて間もなく、OSHOがその悲しみも取り去ってゆくでしょう、と。
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