mixiユーザー(id:4209164)

2015年08月24日18:51

251 view

アティシャの瞑想と、慈しみを放つとき。

チベットに渡った人で
3人のグルかに教えをもらったという
稀有な人に、アティシャという
人がいるみたいで


アティシャの瞑想の一つに、
世界の苦しみを吸い込んで、
至福を吐き出す呼吸があるように書いてあった。

慈しみ深いよね、、世界のありとあらゆる混沌を馴染ませて、喜びをブレスする。素敵だね。頭の悟りは、ロジカルで、慈しみに欠けてると思う、致命的なほどに。世界の苦しみに気づき、喜びを放とう


2度目のワンネスの体験の時、絶望的なほどの、落胆を直後に経験した。それは、世界を包括する気づきとしての、実在と、世界にある苦しみが生み出した距離のようなものだった。何ができて、どこまで進めばいいんだろう。世界を呼吸で受け入れる生き方から、世界に呼吸を吹き込む生き方に気づいた。





世界中に神経があれば、痛みに耐えられるだろうか? この不可能な度合いが、存在の座を、確かなものにしているのかもしれない。正直に対面すると、世界に開けてく。感じない度合いが、合理的さを生んだのかもしれない。世界中に慈しみと微笑みが投げかけられる時、生命の川の中にいることを知る




人間を観察する時、人間のゲームが。存在を観察するとき、気づきの性質が、見えるのかもしれない。慈しみを観察するとき、何が見えるだろうか? それは、不思議なもので、観察するよりも、一体になった方が、見えてくるような気もする。


そうやって、体感するなかで、
気づく行きた学びは、何だろうか?




2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する