やらない者、やれない者の代わりに自分がやるのは結構簡単で安易な事だ。
やらない者ややれない者にやれる力量を持たせる、育てる事こそが最も難しい。
また、そんな時に文句を言うのは最も簡単で、意味の無い事だ。
更に、このような場面でスルー、見猿聞か猿言わ猿をする事も、本来の持つ意味とはかけ離れている。
何より、自分でやらない、やれない事を見ない聴かない言わない者が多い。
「本当にそうだ」なんて、自分の事でしょ。
ぼくは自覚的に育てる側に立ち、自身の伸びしろに基づいて伸びていく。
40にして未だ自分の伸びしろを見る。
それだけ遅く進んでいる事の証でもある。
目の前に居る人が、やるべき事をやらない事は、それをやらせる事が出来ないぼくの所為だ。
人の所為にして、文句ばかり言っている人がぼくの目の前に居る事は、それをわからせる事が出来ないぼくの所為だ。
ぼくの目の前の人が、ある崖をはしごを掛けているにも拘らず、昇って来ないのは、昇らせる事の出来ないぼくの所為だ。
けれども、次の段階をぼくが昇るために必要であれば、そのはしごを外し、目の前の人をぼくは見捨て置いて行く。
もちろん、それもぼくの所為だ。
何処でもそうだが、此処は全員が行ける場所、居られる場所ではない。
ぼくはぼくの責任に於いて、人を育てる事もし、人を見捨て置き去りにする事もためらわない。
時と場合に依っては、人を殺しもするだろう。
憎まれて当然。
「いつでも何処でも誰とでも、いつも一緒に居てあげる」そんな詐欺師のような事も時にはするかもしれない。
それはただの利用だ。
そうすれば、どう思われるかも容易にわかる。
全然それで構わない。
やる事は、やらない事を否定する事であり、その逆も然り。
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