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2015年02月17日13:51

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遅刻をしても歌がよければいい?


 前回のエントリーを書いていて、あいまいだった点を確認しようと、ダニエル・ウルフの 『Mr. Soul サム・クック (原題=You Send Me)』 (ブルースインターアクションズ 2002) をひもといた。
 まず、ジュリアス・チークスがスターラーズに参加していた時期だけど、1950年前半の、長くて2年くらい (1年に満たなかったと書いている資料もある)。 
 たぶんチークスが、お金をめぐってセンセーショナル・ナイティンゲールズからスターラーズへ移ったけど、ゲールズのレコードを出していたピーコックのドン・ロビーに契約書を振りかざされて、元のさやに戻った、というようなことだろう。
 とにかく、クックとチークスはうまが合ったようで、と同時に、チークスはよりハードな唱法や派手なステージマナーをクックに教えたと述懐している (see 『ゴスペル・サウンド』)。
 2人のダブルリード (1954年録音) は、こんな感じ。 

 Soul Stirrers - All right now (Julius Cheeks & Sam Cooke lead) :
 https://www.youtube.com/watch?v=qqqtB0RyURo

 ちなみに、クックがあのウォウウォウウォ〜という節回しを編み出したのは、ウルフの取材によれば、1953年夏に、カリフォルニアを巡業していたとき、だとのこと。
 先代のR・H・ハリスに比べて声域が狭いので、オクターブ下げでハーモニーをアレンジして、それでも高音域で無理が出る。 そこをなんとかしようと、苦肉の策で編み出したのが、トレードマークになったあの渦巻き状の節回しだったというわけだ。
 必要は発明の母、なのね、やはり。
 余談だけど、オーティス・レディングのあの個性的な唱法も、リトル・リチャードのコピーから始め、しかももっと声域に恵まれていないオーティスが、なんとかもう一人のアイドルであるクックの真似をしようとあがくうちに出来上がったものだと、私は、昔から勝手に思っている。
 
  『Mr. Soul〜』 には、クックがスターラーズを抜ける伏線の1つになった、作曲の著作権料をめぐるもめごとの話が書かれてたりして、面白いのだけど、そう脇道に逸れてばかりじゃ、いつまでたっても本題が始まらない。 もう1点、サムがいつスターラーズを抜けたかを、確認するだけにしよう。
 と思ったら、これがよく分からないんだよね。
 1957年4月に、クックは、スターラーズとの最後のセッションをしている。
 その前、57年1月に、デール・クック名義のポップ曲「Lovable」 (スターラーズの「He's Wondeful」の改作) が出て、あまりにも見え見えの偽装だったため、スターラーズは巡業のステージで、ゴスペルファンの聴衆から非難を受けて悲鳴をあげた (旅先のスターラーズからループあての、そういう手紙が残っている)。
 このころ、クックは、病気などでときおり公演を休むようになっていて、そういうときは、ポール・フォスターが自分のパート以外に、クックのパートも歌って穴埋めをした。
 <「解るかい」と [リロイ・] クリュームは思い返す。 「サムがいなくなるまで、僕は彼が [グループから] 去ったのに気づかなかった。 大きな争いは無かった。 彼はただ、姿を見せなくなったのさ。」> (『Mr. Soul〜』 p.166)

 復習すると、スペシャルティを離れたクックと彼のプロデューサー (バンプス・ブラックウェル) がキーンから出した「ユー・センド・ミー」がポップチャートのトップに躍り出たのが57年の10月。 それを見て、逃がした魚の大きさを知ったスペシャルティのアート・ループは、すぐさま自社に残っていたクックのポップ曲録音のなかから「アイル・カム・ラニング・バック」を発売して、大きなおこぼれにあずかった (12月にR&Bチャート1位) 。
 つまり最後のセッションから半年ほどの間に、クックはスターラーズに姿を現さなくなり、そして突然、世俗音楽のスターになったわけだ。

●さて、SAR 以降の、スターラーズのリード銘々伝。 もう一度、ジョニー・テイラーから。
 1959年の1月に、シカゴのユニヴァーサルスタジオで、このレーベルでのスターラーズの第1回録音が行われたときのグループの面子は:
 ジョニー・テイラー、ポール・フォスター、J・J・ファーレー (バス、唯一の古参メンバー)、リロイ・クリューム (ギターとバリトン)、リチャード・ギブズ (バリトン)、そしてベース奏者のソニー・ミッチェル (準メンバー) の6人だった。
 さて、テイラーは、この最初のセッションに遅刻したらしい。 というか、クックの弟のL.C.が、あちこち手を尽くして探して、やっと連れてきたという (なんか、L.C.ってそういうキャラなんだよね)。 で、なんとかセッションタイム内にスタジオに来たテイラーは、プロデューサーのクックの指示で、クックがスターラーズで歌った「Stand by Me Father」の再吹込みをする。

 Stand By Me Father (SAR 101) with Johnnie Taylor lead singer - The Soul Stirrers:
 https://www.youtube.com/watch?v=mlqY2y7ca2I

 これ、もちろんクックに似ているけど、すでにジョニー独自の味わいもあって、いい出来だと思う (ギターは、クックのRCAでのセッションでもよく弾いたクリフ・ホワイト)。
 このセッションではフォスターが2曲でリードを取ったが、テイラーがリードのものももう1曲ある (「He Cares」)。
 というわけで、フォスター/テイラーの2頭立て馬車の体制で、新生スターラーズは順調に走り出した、…と思ったら、そうはいかなかった。
 テイラーが、事故を起こした。 自動車で、小さな女の子をはねたのだ。 マリファナ吸引運転だったといううわさもある。
 で、反省して坊主に、ではない聖職者への道を歩むということで、グループをやめた。
 でも、三日坊主だった。 
 1960年にやめて、翌61年にはSAR で、世俗のソロ歌手としての録音を開始する。 
 それを許したクックは、寛容な、っていうか、あんまり物ごとを気にしない人だったのだろう。 そりゃあ、あれだけハンサムで、あれだけ才能に溢れていれば、「細かいこと」にこせこせはしませんわな。
 そのくせ、仕事熱心で、牧師の子だから礼儀正しい。 彼のほうから口説かなくても、ニコっと笑っただけで、女子がどんどんアプローチしてきたそうな。

●と、私はバカなことを書いていればいいけど、ソウル・スターラーズの面々にしてみれば、困ったことになった。
 またまた、次のリードを見つけなければいけない。
 と、いうときに、ニュージャージー州ニューアークのゴスペルプロモーターが、「フロリダに、クックスタイルで歌えるいい若い歌手がいるよ」と、ジミー・アウトラーを推薦した。
 クックは、昔カルテット・バトルで手ごわいライヴァルだった、マイティ・クラウズ・オヴ・ジョイのジョー・リゴンをスターラーズに入れたかったのだが、引き抜き工作はうまくいかなかった。
 で、アウトラーが加入して、SAR 時代のグループのフロントマンとして、充実した録音を残すことになった。 というわけで、次回に続きます。

 The Soul Stirrers-Jesus Be a Fence Around Me:
 https://www.youtube.com/watch?v=gHKnJwiyDJI

 Jimmy Outler with The Soul Stirrers - Looking Back:
 https://www.youtube.com/watch?v=zRGi11Fu9Ps
 
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