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2014年12月31日00:14

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野球 中日 八木 楽天 藤江

ぼくはスポーツ観戦はしないのだけれど、この二人は暫く見たいので記録。
戦力外通知された選手の番組を見て応援したくなり。

基本、スポーツ選手とか名前覚えて居られないのよね。
バースと落合と掛布と岡田くらい。
あー、当時の大洋ホエールズだったかなあ、やはり、八木、高木、屋敷のやたら足の速い選手が居たような。
ぼくが小6くらいの時の野球選手たちかな。

去年以前ならこの番組を見なかったな。
スケールは違うけれど、ぼくも戦力外通知された社員なので、そこからの脱出と言うか復活、または、リベンジをした者なので、気持ちは良くわかる。
もちろん、今後も油断はならないし、いつまでも成功し続けていかなければならない。

そこから外れても、もちろん生きて行ける。
けれども、自分で勝ちに行った勝負に負けたままで居る事は、屈辱以外の何ものでもなく、その苦悩たるや、想像を絶する程、自分で自分を苛むものになる。
自分で勝ちに行く勝負、と言う事自体に触れた事のない人や、それらを求めない人は、それで良い。

そう言った人たちに、それをしろとは求めない。
そう言った物事は人生の中でオプションのようなものだ。
手に入れた人生に対し、まだ足りないから付け加える要素。
敢えて苦悩を付け加えるようなものだ。
つまり、ぼくの人生に対し、まだ足りないから付け加えていたい物事だ。

物事は別になんだっていい。
野球だって良かっただろうし、学歴だって良かっただろうし、技能コンテストでも良かった。
タイミングとハートの問題だっただけで。
その代償として、通常では得られない充足感や満足感を得ようとする。
では、それで充足したのか満足したのか? と言う問いがあるとすると、それはしていない。
もちろん、誰にだって備わっている、いつでも足りない心と言うものがある。
人間は、そのいつでも足りない心をいつでも足りないままに在る、と言う事も可だが、いつでも足りない心をいつでも足りないままにしないで在る、と言う事も可なのだ。
人は前者を、ぼくは後者をオプションとして選択した。
していないのだから、どちらでも同じかどうか。

ぼくのはオプションだが、野球選手の彼らにとって今回の戦力外通知はオプションではないかもしれない。
彼らは野球しかやって来ていない。
ぼくはやれる事はなんでもやってきた。
再就職をした者も居るが、それも駄目かもしれない。
野球しかやれない人生かもしれないからだ。
そうなればオプションは無い。

言い換えると、ぼくにはオプションしかない人生かもしれない。
オプションを選ぶ事をやめたら(実際いつもオプションを選択して生きている)駄目なのかもしれない。
だから、オプションを選び続けているのかもしれない。
さすれば、いつでも足りない心をいつでも足りないままにしない事でしか生きて行けない事が、在るようにして在る事かもしれない。
誰かは、いつでも足りない心をいつでも足りないままにする事でしか生きて行けない事が、在るようにして在る事かもしれない。

人類に飼われずに動物が暮らす姿が自然として、あるがままなのだ、と言う人が居る。
そうかもしれない。
人類が動物を飼う姿がある事も自然として、あるがままなのだ、と言うぼくが居る。
そうかもしれない。

いつもの事だが、そう言う事を考えた。

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