すべての苦しみに対し、乗り越える必要性があるように表現される事が多いが、別に乗り越える必要はない。
まず、何故乗り越える必要があるのだろう。
自殺ではなく事故でも病死でも、寿命でも、愛する者が死んだならそれは酷く哀しく寂しく身を切り裂かれる思いだ。
現代は何故か、なんでもかんでも乗り越えろ乗り越えろと言う風潮があるが、それが正しく良い事であるかのように言っているが、それこそ一体なんなのだろう?
苦しいは苦しい
哀しいは哀しい
憎いは憎い
虚しいは虚しい
それがそれである事の何を乗り越えろと言うのだろう。
これの何処がいけないのだろう。
まさか、
楽しい
嬉しい
幸せ
喜び
こんなものだけが、人の世のすべてだと言うのか。
それで駄目な時は、駄目なだけ。
そして、駄目である事の何がいけない。
そう言う時は、駄目になってしまいたいものでもある。
それで必要以上の迷惑を他人に掛けるのであれば、その時は排除すれば良い。
なんとか無理にでも立ち直らせようとするのは、今哀しくない者の傲慢な押しつけに過ぎない。
そもそも、その哀しみなり苦しみを乗り越えたいと思う事は殆どないだろう。
ただただ、愛する者が自分の下に戻ってきてほしいと言う思いだけだろう。
まあ、その傲慢さも構わないが、まず、今辛く苦しくきつい者に乗り越えろなどと言う説法なりなんなりは、その者を変えたいと思う者のつまらない無知で愚かで幼稚な自身を神格化する事から来る勘違いだな。
見当違いでも良い。
「自分には他人を救う事が出来る」と言う、安直な言い方をすれば「自分は良い事をした」と言う。
こればっかりは、どーしよーもない、あほ、だな。
苦しむだけ苦しんで、哀しむだけ哀しんで、あとはその者次第。
愛する人が自殺してしまった時の感情との向き合い方
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=166&from=diary&id=3195116
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