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2014年11月26日23:38

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武蔵府中紀行4 浅野長政隠棲の跡 / 本願寺

 23日日曜日は、府中市押立町の龍光寺に参拝した後、再び中央道の高架下を潜って北上、白糸台エリアへ向かいました。京王電車の通るラインの南側は府中崖線(ガイセン)になっており、ハケと呼ばれる急斜面に多くの坂道が設けられています。
 白糸台5丁目の車返(クルマガエシ)団地北方の「はけた坂」もその一つで、勿論、ハケに由来する地名です。
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 はけた坂を登って京王線線路沿いに少し西へ向かうと、府中白糸台幼稚園があります。ここは浅野長政隠棲の跡〔東京都指定旧跡〕です。
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 浅野長政(1547〜1611)は、北政所の姻戚として豊臣秀吉の側近となり、甲斐国府中215000石を領したのみならず五奉行筆頭としても辣腕を振るった人物です。しかし、秀吉の死の翌年である慶長4(1599)9月に前田利長・大野治長等と共に徳川家康暗殺を企んだ罪状をデッチあげられ、長男幸長(ヨシナガ)に家督を譲って、ここ府中在住の旧家臣平田家の屋敷へ隠居したのです。但し、翌9月の関ヶ原合戦では東軍に組したため罪を許されて家康に近侍するようになり、慶長11(1606)年には紀伊国和歌山370000石の幸長の所領とは別に常陸国真壁50000石を隠居料として与えられています。即ち、長政がここに住んだのは一年間だけだった訳です。幼稚園は平田氏の子孫が経営しており、土塁が現在も残っています。
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 園内に東京都教育委員会が建てた以下の様な石碑があるんですが、部外者立ち入り禁止なので、ネットで拾って来た写真を載せておきます。
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 ここから少し西方へ進むと、浄土宗八幡山本願寺があります。

 寺伝によると、文治5(1189)年、源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を滅ぼした際に、藤原秀衡の守本尊の薬師如来を畠山重忠に命じて鎌倉へ運ばせましたが、途中、夢告によりこの地に祭る事となったのが当寺の始まりだとされます。
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 現在の白糸台2丁目・4丁目エリアは江戸時代には車返と呼ばれましたが、それは重忠が薬師如来を運んで来た車を返した事に因(チナ)んでいるとされます。
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 なお、白糸台の地名は奈良時代に養蚕が盛んな地だった事に由来するそうです。
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 寺伝によると、その後、本願寺は永正13(1516)年に教誉良懐上人を迎えて中興開山としたとされ、さらに天正2(1574)年に宮崎泰重(1533〜99)なる人物が堂宇を寄進して寺を現在地に移転したと伝えられています。泰重は元々甲斐武田氏家臣で、天正10(1582)年の武田勝頼滅亡後は信濃国下伊那郡座光寺村に潜伏していましたが、天正16(1588)年に駿府の徳川家康に仕えるようになり、天正18(1590)年の家康の江戸入府時に260石を与えられています。即ち、寺伝は嘘っぽいですね。
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 こちらが、件(クダン)の薬師如来像を祭る薬師堂です。
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 庭園です。
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《続き》
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