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2014年11月14日00:33

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本能寺

 11月4日火曜日は奈良県内某所の仕事の後、3dayチケットを利用して京都に行って来ました。二週連続で京都へ行った事になります。
 丹波橋で近鉄京都線から京阪本線に乗り換え、三条駅で下車、三条大橋を渡りました。
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 この一週間前にも赴いた高瀬川沿いに北上します。
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 御池通(オイケドオリ)を左折すると、北側に京都市役所が見えて来ます。
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 今回の第一目標は御池通を挟んで市役所の南向かい側にある法華宗本門流大本山本能寺です。

 本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、応永22(1415)年に京都油小路高辻と五条坊門の間へ、日隆によって創建されました。寺地は北を五条坊門小路(現・仏光寺通)南を高辻小路・東を西洞院大路・西を油小路に囲まれた地でした。日隆は妙本寺(現・妙顕寺)四世の日霽に師事しますが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺五世月明と対立してしまい、応永25(1418)年に本応寺は月明によって破却されてしまいました。
 この結果、日隆は河内国三井の本厳寺や摂津国尼崎の本興寺へ拠点を移しましたが、永享元(1429)年に帰洛して大檀那の小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本応寺を再建、さらに永享5(1433)年には、如意王丸なる檀那から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受けて移転し、寺号を「本能寺」と改めました。
 その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、戦国時代前期には洛中法華21ヶ寺の一つとして足利将軍家の保護を受けました。寺域は六角小路以南・四条坊門小路(現・蛸薬師通)以北・櫛笥小路(現・神泉苑通)以東・大宮大路以西で方一町の敷地を持ち、また多くの子院も有していました。
 応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透して「題目の巷」と呼ばれる状況だったため、本能寺は殷賑を極めたのです。
 しかし、天文5(1536)年の天文法華の乱の結果、比叡山延暦寺の僧兵により、本能寺の堂宇は悉く焼き払われてしまい、一時和泉国堺の顕本寺に避難せざるを得なくなりました。
 その後、天文16(1537)年か翌年頃に帰洛を果たし、第五代伏見宮邦高親王の子である日承上人が入寺して本能寺第八世となり、四条西洞院大路・油小路・六角小路・四条坊門小路(現・蛸薬師通)に亙る広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余院を擁する事となりましした。
 日隆の開山以来、尼崎の本興寺と共に山号は無く、両山一貫主制を続けていましたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内・北陸・瀬戸内沿岸諸国から大隅国種子島に至るまで広がり、本能寺を頂点とする本門流教団が成立したのです。本能寺は、早くから種子島に布教していた事から、鉄砲・火薬の入手に関して戦国大名との関係が深く、織田信長は日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていました。
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 その結果、天正10(1582)年の本能寺の変で、伽藍は全焼しまったのです。
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 天正19(1591)年に至り、関白豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区寺町御池下ル)へ移転の上、再建される事となり、翌年、伽藍が落成しました。当時の寺域は現在の御池通と京都市役所を含む広大なエリアに及んでいました。
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 元和元(1615)年には江戸幕府から朱印地40石を与えられています。前述の理由で諸大名との関係も深かった事もあり、寛永10(1633)年の『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院でした。
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 しかし、天明8(1788)年大火で多くの堂宇を失ったに続き、元治元(1864)年の禁門の変の「どんどん焼け」により伽藍は焼亡してしまったのです。長州藩邸に隣接していたため、長州藩邸の火が延焼したとの説が有力ですが、薩摩藩の砲撃によって長州藩邸よりも先に焼け落ちたという説もあります。
 この結果、寺地は縮小してしまい、塔頭(タッチュウ)も七つを残すのみとなってしまいました。現在の本堂は昭和3(1928)年の再建です。
 なお、本能寺の「能」の字は「䏻」という俗字が使われています。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているとされています。但し、この「䏻」は本能寺のために作字された訳ではなく、当時は現在の「能」よりも広く使われていた字体でした。
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 さて、私は何度もここの門前を通った事はあったのですが、中に入るのは初めてでした。
 表門〔登録文化財〕です。
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 本堂〔登録文化財〕です。
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 信長公御廟所拝殿〔登録文化財〕です。
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 右大臣織田信長の墓です。
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 本能寺ゆかりの貴婦人の墓です。
 手前;増子女王(1711〜33)。第14代伏見宮邦永親王王女。9代将軍徳川家重正室。
 中央;五条庸子(1660〜83)。五条権大納言菅原朝臣為庸娘。人皇第112代霊元天皇掌侍。第189代天台座主尭延法親王(ギョウエンホッシンノウ)母。
 奥;円信院殿(?〜1572)。種子島時尭(タネガシマトキタカ)娘。薩摩守護島津義久室。
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 本能寺を開山した日隆(1385〜1464)の墓です。
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 第5代伏見宮邦高親王の王子で本能寺第八世住持となった日承王(ニチジョウオウ;1500〜82?)の墓です。没年を示す史料が無いんですが、織田信長の帰依を受けていたため、本能寺の変の巻添いを喰った可能性が高そうです。
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 500円を払って大寶殿宝物館にも入ってみました。
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 織田信長禁制朱印状です。本能寺境内地の安堵(アンド)を約束し、文末には天下布武の馬蹄形朱印が押捺されています。
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 織田信長が寄進した「麒麟の香炉」です。古代中国製品を輸入した物です。
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 織田信長が所持していた天目建盞(テンモクケンサン)茶碗です。南宋時代に福建路の建窯(ケンヨウ;現福建省美南平市建陽)で製作され、輸入された物です。
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 香炉「三足の蛙」です。本能寺の変の前夜、突然鳴き出して、異変を知らせたとの伝説があります。
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 狩野松栄(1519〜92)筆の六曲一双・唐人物図扇面貼交屏風(ロッキョクイッソウ・トウジンブツズセンメンハリマゼビョウブ)です。「朝顔に薄」と「葛に薄」図を背景とする二隻屏風に二十四考を始めとする中国の故事に基づく絵を描いた扇面を六十枚貼り交ぜています。狩野松栄は元信の三男で本名は直信、作風は兄の永徳の豪華絢爛に対して、大らかで温かみがあります。扇面の全てには松栄の朱文壺印が捺されており、松栄様の画風ですが、個人の作品というより工房作りの意味だろうと考えられています。
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 梅樹雉雀文様銅鏡(バイジュキジスズメモヨンヨウドウキョウ)〔重要文化財〕です。鏡背文様は、下に洲浜・岩礁・流水を配し、洲浜から梅樹が左上方に伸びています。二羽の雉と多数の雀が飛び交い、水面には梅花が浮かびます。このように鏡背面の内・外区に分ける界圏に関係無しに画面一杯写生風に花鳥を描くのは平安末期に始まる手法ですが、製作年代や奉納の経緯は不明です。
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 五彩龍鳳花卉文大瓶(ゴサイリュウホウカキオオカメ)〔重要文化財〕です。明の万暦年間(1573〜1620)に景徳鎮で製造された品で、茶屋中島長右衛門重良が正保2(1645)年に奉納した物です。
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《続く》
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