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2014年11月09日00:54

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これが家族というものかは

電車に乗っていると
女の子とその父親が仲よさそうに
並んで座っていた。

私の父親が死んだのは今から6年前、
食道癌で亡くなったのだが
これは妹及び親戚から聞いた伝聞で
高校を卒業してから一度も会ったことはなかった。私が中学生の頃に家を出て行って
それっきりである。死ぬまで口を聞くこともなかった。

ある人はそれを悔しいとか残念でしょうと
同情する。その理由が私の花嫁姿を
見せられなかったからという
本来の私の性質とまことにかけ離れた
視点で語られる。
後悔も無念もない、花嫁の姿など
私は最も忌み嫌う偶像と考えている。
あるのは、他の家族はどうなんだという
懐疑と父親という存在が私の中で
男以上の存在としてしか認識できなかった
ことである。

母親の存在でさえ私にとっては
それほど重要でもないような気がする。
幼少期はほとんど祖母と過ごし、
祖母のごはんを食べ夜だけ母親と過ごすという
生活だった。今は一緒に住んでいるが
価値観や考え方は全く違う。
私は実存主義で神やスピリチュアリズムに
全く興味はないが母親はそういうものが好きで
なんでも型にはめたがる。その型が異常に
歪すぎて正直言うとついていけない。
ともあれ、幼少期から気の弱い私は
何かにつけて結果を求められ同級生と
比較され足りないといわれることは常だった。
それは今でも変わっていない。
私は常に彼女にとって見下し他人と比較し
己の思う通りにならない木偶の坊としか
見ていない。だから私が傷つこうが泣こうが
全て不快であって突き放すことはあっても
寄り添って話を聞いたりする人間ではない。

妹はそんな私の姿を見てもう
家に寄らなくなった。
私が女性として着飾り男性の目を惹き付ける
のを極力拒むのとまるで反対であり。
男性が漬け込む隙というものを彼女は持っている。女性になっている。
妹ともまともに連絡を取っておらず
何をしてどうなったのか私は知らない。

というわけで、私の家族は
物心ついた時から会話はゼロ
部屋は灯りもなく真っ暗、
それが私には普通だったから
家族が楽しそうに歩いていると
どちらが家族のあるべき姿なのだろうと
思うのである。一般的に言うフツーの
家族像が100点ならば我が家は何点だろうか
とか、あんな風に父母と仲良く彼氏のことや
学校のことを語りあえるのはどうしてだろうとか、この娘が死ねば父親がどれほど悲しむ
だろうかと考えずにはいられなくなる。

私にはフィクションでしかないから。
私は自分がそのフィクションを演じる自信がない、正直言うと異質なものに見えてならない。
私の生き方もまたフィクションに見えるのかも。

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