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2014年11月09日00:13

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高瀬川

 10月28日火曜日は、奈良県内某所で仕事の後、京都まで足を延ばし、高瀬川沿いの散策を楽しみました。
 京阪三条駅で下車、御池大橋で鴨川を渡ります。
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 すぐに高瀬川が見えて来ました。

 高瀬川は角倉了以(スミノクラリョウイ)・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶための物流用に開削された運河です。慶長15(1610)年、方広寺大仏殿の再建において、角倉了以・素庵父子は鴨川を利用して資材運搬を行いましたが、翌年、並行した仮運河も設けてみたところ、非常に有用だったため、慶長19(1614)年に父子によって、京都―伏見間に延長9.7kmの恒久的な運河が開鑿されたのです。
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 二条大橋の南で鴨川西岸を併走する「みそそぎ川」から取水し、二条から木屋町通沿いの西側を南下して、九条通と十条通の間でで鴨川を横断、下流部は鴨川東岸を南下した後、一部区間で竹田街道と並行しながら濠川と合流、伏見港を経て宇治川に合流していました。
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 水深は数十cm程度と浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられました。この結果、日本各地の同様の川舟が高瀬舟と呼ばれる事になります。
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二条から四条にかけては、荷物の上げ下ろしや船の方向転換をするための「船入」が高瀬川から西側に直角に突き出すように作られ、 七条には内浜(ウチハマ)とよばれる船溜まりがありました。 内浜の設置は、慶安元(1648)年からの枳殻邸(キコクテイ)の建設等に合わせて、御土居の付け替え、高瀬川の流路の変更と共に行われています。 川沿いには、舟曳き人夫の曳子が高瀬舟を人力で曳いて歩くための曳舟道も設けられました。
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 高瀬川は300年間に亙って京都と伏見とを結ぶ主要な物流手段として多くの舟が行き交っていましたが、明治27(1894)年に琵琶湖疏水(鴨川運河)が通じると、輸送物資の役割分担によって共存を図ろうとしたものの物資輸送量は減少してしまいました。但し、大正5(1916)年に森鷗外が名作『高瀬舟』を発表したため、知名度は急上昇しましたが、大正9(1920)年に至って遂に水運は廃止されてしまいました。
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 この結果、舟入も最上流の一之舟入〔史跡〕以外は埋め立てられてしまいました。またこの頃、高瀬川を暗渠化し、路面電車の木屋町線を拡幅する都市計画道路が検討されましたが、地元住民の反対によりに変更されています。
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  昭和10(1935)年に起きた鴨川大洪水のあと、鴨川の河川改修の一環として鴨川の川底の浚渫(シュンセツ)が行われ、鴨川の川底が2m程度低くなったため、高瀬川が北から鴨川に流入する地点は十条通付近まで移され、また一方で鴨川横断点の下流側(東高瀬川)では鴨川からの取水が不可能となり、高瀬川は分断される事となってしまいました。
 京都中心部の三条から四条あたりにかけての高瀬川周辺は京都の歓楽街の一つとなっており、桜の名所としても有名です。
 現在、東高瀬川の方は鴨川とは繋がっておらず、雨水等を水源とする一級河川となっています。また、疏水放水路と合流して直接宇治川に流れ出ており、濠川とは合流していません。宇治川に直通する水路は新高瀬川とも呼ばれます。
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 さて、一之舟入から南下してみましょう。
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 一之舟入西側の日本銀行京都支店が角倉了以の本邸跡です。
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 佐久間象山・大村益次郎遭難地です。
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 佐久間象山は元治元(1864)年、大村益次郎は明治2(1869)年にテロリストの兇刃に斃(タオ)れました。
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 二之舟入跡です。
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 加賀藩京都藩邸跡です。
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 三之舟入跡です。
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 四之舟入跡です。
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 高瀬川沿いには枝垂れ柳が多数植えられて風物詩となっています。
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 三条小橋脇にも佐久間象山・大村益次郎遭難碑があります。
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 三条小橋です。
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 五之舟入跡です。
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 六之舟入跡です。この付近は工事中でした。
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 七之舟入跡です。
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 土佐藩京都藩邸跡です。
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 幕末には、山内容堂・後藤象二郎・板垣退助・武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎・岡田以蔵等が出入りしていた訳です。
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 角倉了以顕彰碑です。
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《続く》
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