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2014年11月06日07:58

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豊中市史跡巡り20 桜井谷窯跡群 / 報恩寺

 10月26日日曜日は、豊中不動寺に参拝した後、西北へ向かって北緑丘団地へ向かいました。前回、見つけ損ねた桜井谷窯跡群《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1933634515&owner_id=250900》の2−19窯跡〔豊中市指定史跡〕を探すためです。ネットによる調査で、前回見つけた2−24窯跡〔豊中市指定史跡〕の南側にあるって事のみが判明していたんですが、何とか団地内の遊歩道沿いで見つける事が出来ました。
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 千里川東岸の2-19窯跡は、残存する主軸長約9.5m、中央部の床面幅約1.8mを測るもので、焚口・天井部・煙道部分は失われていましたが、ほぼ構築当初の規模を推察出来ます。
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 続いて千里川を渡って西方の永楽荘地区に向かいました。
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 府道43号線のバイパスと旧道を横断すると永楽荘4丁目です。ここには、桜井谷窯跡群2−23窯跡〔豊中市指定史跡〕があります。ここもかなり判り難い場所でしたが、大型マンション豊中北コーポラスに隣接した地点で見出す事が出来ました。
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 2-23窯跡は永楽荘窯址とも呼ばれ、千里川西岸に形成された河岸段丘の南東方向に下る斜面上に6世紀前半頃に築かれた物です。昭和52(1977)年に範囲確認調査で、窯の本体は全長約13m、最大幅2.5m、天井部の高さ2m以上の半地下構造の登り窯で、大阪府内で最大級の窯址である事が判明しました。しかし、大規模過ぎて焼成途中で天井が崩れてしまい、土器と共に捨て去られたようです。窯の内部には、土器が窯詰めされたままで残っており、当時の窯詰め方法や一窯あたりの生産量など、古代の窯業生産の実態を解明する上で貴重な資料となっています。
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 続いて、府道43号線旧道を南下、前回、時間が遅くて既に閉門してしまっていた浄土真宗本願寺派甘露山報恩寺へ向かいました。

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 報恩寺は、寺伝によると、元は行基菩薩開創の金寺千坊の一つで、金泉寺と称していましたが、本願寺第三世覚如の子存覚(1290〜1373)が入寺して念仏の道場としたとされます。
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 現在の寺号となったのは、文禄3(1594)年です。
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 明治初年、南垣内から現在地に移転ぢ、その際、麻田藩陣屋の一部が山門・庫裡(クリ)・書院として移築されました。 
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 庫裏の建物が麻田陣屋御殿表玄関〔豊中市指定文化財〕です。
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 三間通しの広い式台をつくり、内側に十二畳の広間を設けています。
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 正面には大虹梁をかけて中央に富士に霞をあしらった蟇股を備えています。
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 なお移築の際、庫裏との取り合わせのため柱間装置が変更されている箇所が見られますが、内法長押・襖金具は当初のものが用いられています。
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 特に、大虹梁の絵様などは江戸時代後期の様式を示し、小大名居館玄関遺構として貴重なものです。
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 この後、近くの宮山BSから0944時発43系統津雲台7丁目行阪急バスに乗車、0950時に豊中本町4丁目BSで下車しました。
《続く》
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