これは本音です。本来、大フィル頑張れ、のぐすたふ君としては。
京都 京都コンサートホール
京響第583回定期演奏会
ドミトリー・リス指揮 京都市交響楽団
ヴァイオリン独奏 川久保賜紀
ピアノ独奏 野田清隆
ブラームス:悲劇的序曲
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲ニ長調
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシュカ」(1911年版)
その理由は・・・・正直に言って、ぐすたふくんがコンサートゴーアーを始めたころ(もう11年も前のことになるんだなあ・・・)の京響と大フィルの音の違いっていうのは歴然としていて、大フィルの重厚にして馥郁とした香りに満ちたストリングサウンドに比し、京響のストリングセクションの音といったら、まあなんとも硬く貧弱、かつ表現の幅の乏しい音しかしなかった。それは僕だけが言っているのではなく、うちの家族全員の意見で、京響のプログラムにベートーヴェン・ブラームスの文字が見えるだけで、「こんなん、無理してやらんでもいいのに」という会話が茶の間で交わされていたくらい(これが嘘でないことは、僕の書いた記事を見てきた人はみんな知っているはずですよね)。
ところが、今やエキストラが半分を占めるまでになった大フィルストリングセクションに昔日の栄光はなく、一方でほとんどメンバーが変わっていないはずの京響弦セクションの最近の充実ぶりは、一体なにが原因なのか。
こんなことをぐすたふくんに書かせているのは、ひとえに今日の「悲劇的序曲」。いみじくも、昨日、一昨日の大フィルと同じ「悲劇的」の文字をそこに見る楽曲だが、今日のこの曲で見せる京響弦セクションのサウンドの凄絶なことといったら、感嘆する以外ない。それこそ、「触れただけで血しぶきを上げるような」鋭角的な「切れ」。思わず、ぞくっとするが如く。
ここまでのサウンドに、拍手が応えきれていない(カーテンコール1回で済ますべき演奏ではないだろう!!)のに腹が立ったくらいです。
このサウンドは、チャイコフスキーでも炸裂。1楽章コーダ突入寸前で弦を切った川久保嬢はお気の毒であったが、展開部での大見えで見せた壮大で懐深い感動的な音楽は、ひとえに今の京響ならではではなかったか。
ペトルーシュカに至っては、ここまでのサウンドを聴かせられるのは関西では京響しかいない、ということを嫌というほどわからせてくれる演奏。1幕のクライマックスで一瞬崩壊しかけたように聴いたのは、ご愛敬か僕の聴き間違えか? そんなことはどうでもいい、安定感のある管セクションの変幻自在の音絵巻のなんと見事なことだろう。
二日間の前のめりで構えて臨んだ大フィルのマーラーから、今日はリラックスして愉しませてもらおうと臨んだ今日の演奏会、まさかここまで熱くなるとは思いませんでした。
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