mixiユーザー(id:1640816)

2014年09月22日19:44

407 view

フッたり、フラれたり。 �� 浪人、大学生、20代編

フォト


80年代末から90年代前半はあんまり世相を意識出来ていなかった気がする。すべてにおいて余裕が全くなかったからであった。最低週5回のセックス、1日3回のオナニーしか出来ないくらい追いつめられていた。おカネもなかったから、本も映画も音楽もシーンを更新出来なかった。時代に置き去りにされてしまった、それが私の空白の期間、80年代末〜90年代前半であった。

ただ、広末涼子はデビューして以来ずっと見守っていたので、私の90年代のシンボルは彼女だといえる。

高校を卒業して目指した大学に入れなかったので、新宿の予備校に通いながら、先輩のコネで影絵劇団のバイトを始めた。高校時代にバイクの免許を取得していたが、要求されたのは3tの軽トラの運転手であった。じゃあ諦めますと言ったら、大丈夫、運転しながら免許取ればいいなどとムチャクチャ言われて、無免許状態で三菱のふそうトラックを運転、照明機材の搬入、撤収に従事した。我ながらよく捕まらなかったと思う。無事普通免許を取得してからは生きた心地がしたということで、思いっきり酒を飲んでその3時間後に世田谷区から九州の鳥栖まで出発した。完璧な飲酒運転である。これもよく捕まらなかったと自分の悪運の強さに呆れてしまった。

でもストレスは相当たまっていたようで、あっちこっち全国の小学校を巡業する度にその土地に現地妻を作っていた。耳は悪かったけれども今でいうコミュ障ではなかったし、グイグイ押し切ってモノにする戦法で、みんなが旅館やホテルに泊まっているあいだ、私だけは夜の街をぶらついて幸の薄そうな女性に声をかけてナンパしたり、風俗を利用して一夜妻と寝たりしていた。いわば、女の肌が精神安定剤だったのである。

セックスやオナニーの性的快楽よりも、ただ、二人で抱き合って寝ること自体の安心感。それこそが私に重大な事故を起こさせなかった、拠り所であった。

思えば、イロイロな女性とともにイロイロな風景を見てきた。広島は弥生会館に泊まったのだが、私はレディースをナンパして公園のベンチでヤッた帰り、電柱に貼ってあった広島銀行のポスターの女の子がかわいくって丁寧に剥がしてパクッて、原爆ドームをながめながら帰った。後でポスターの女の子は高橋かおりだと知った。そんな感じで地方を旅芸人のように回った。

1年そんな生活を続けても、ちゃんと勉強はしていたので、受かるべくして受かって、バイトを辞め、市川から国分寺の向こうまで遠距離通学をした。最初の1週間でキツかったので、国分寺にボロアパートを借りたら、カネどころか部屋のないクラスメイトが2、3人転がり込んで、六畳を4人で生活しながら課題を消化する日々を送った。とにかく教材と授業料にカネを持ってかれたので、日々食べるのに事欠いた。それで玉川上水に生えている草や自分の精液を摂取して飢えを凌いでいたのだが、男女問わず同居人たちが私の精液を欲しがるのには閉口した。味がいいし、何よりも十分な量を供給出来るからとのことだったが、女の子はともかく、オウム真理教の麻原みたいな面相の野郎が必死で吸い付いてくるのを眺めると、性的嗜好がオカシクなるような気がして、そのあいだペヨトル工房の本などを貪り読んでいた。

たまにはプラトニックな純愛をしてみてえなぁ、と国分寺のアパートの窓から見上げる夜空はいつもコバルトブルーだった。

カネがなかったので、稼げるチャンスは学業よりも最優先した。それで2年半余りで中退して、これも先輩のコネで映像制作会社に入社した。某国営放送の海外ロケチームに回されて取りたてホヤホヤのパスポートを手に、世界のあちこちを回った。仕事はびっくりするほどカネになったけれども、カネを使う機会がなかったので貯金が増える一方で、比例してストレスもたまっていった。それで異国の地で娼婦を買って女の肌を手に入れることが出来たけれども、素人の外国人女性はついに手に入れる機会がなかった。親しくなれるほど長く滞在しなかったからであり、日本語と同じようにその土地のコトバを話せなかったからである。

帰国したらいいかげん結婚前提で清く正しい交際をしよう!

そう心に誓って、三ヶ月の休暇のあいだに高校時代に買いためていた斎藤由貴、南野陽子、中森明菜などのアイドルテレフォンカード数十枚を使って、灰色の公衆電話(音量調整がついており、私でもフツーに電話出来た)から国内の女性たちに電話をかけまくった。結果は全滅であった。それはそうである。また会おうと言って、三年近く音沙汰なければそれは関係を解消したということなのであった。なかには「生きてたとはオッドロキ〜」と本気でビックリされた。

しょうがない、イチからやり直そう。そうして、今だったらプレミア価格がついたかもしれないテレフォンカードはきれいさっぱりゴミになった。

一回ロケに行けばかなり稼げたので、長い休暇のあいだはひたすら空白の期間の補完に努め、コレクションを増やすとともに、三十路近い年上の女性と交際した。柳橋の芸者さんで、当時、当代住職のオヤジのバカ息子と紹介された縁で知り合ったのであった。女性のところに住み込みでイロイロ世話した。世間的にはヒモであったが、私は主夫のつもりだった。料理、洗濯、掃除はバシッと出来、節約(高い本を買うために)も完璧。それでも結婚出来なかったのは、私が一度も女性の手料理を褒めなかったからである。不器用もいいところで、健康的だからとどんぶりメシにプレーンヨーグルトをかけただけの「ヨーグルトめし」をよく作っていた。その日はお寺に帰って自分でメシを作って食べていた。「ヨーグルトめし」がそんなにイヤなら出て行け!とキレられて、私は丁寧に一礼して「お世話になりました」と挨拶して出ていった。

タベモノが原因で別れたのはその女性だけではない。ファッションモデルとつきあったことがあるが、彼女は体型を維持するために一日食べて、次の日は食べないというリズムを取りつつ、高カロリーのチーズしか食べないという偏食生活だった。だから、キスをする度にチーズ臭かったし、アソコもカビたチーズの臭いがした。おまけに喫煙者で、ロッテのコーヒーガムを好んでくっちゃくっちゃやっていた。従って、タバコとコーヒーガムのコラボ攻撃に、敏感な私の嗅覚は耐え切れなくなり、「くっせーんだよ、テメーはよォ!」と吐き捨てて別れた。ちなみに爆発したその日はちょうど不忍池でボートに乗っており、私はオールから手を離し、着衣のまま池に飛び込んで、濡れねずみのまま浅草まで歩いて帰った。

そんな感じで、90年代へ突入していったのであった。私の手元の広末涼子コレクションはどんどん増えていった。
5 5

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2014年09月>
日 月 火 水 木 金 土
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930