前日の醍醐寺展を見て帰りに地下のトイレに行ったんですが、
そこであるポスターを発見
夏季特別展「新沢千塚」
あ!えらいこっちゃ行くのを忘れてるやん^^;
しかも明日までですけど〜〜〜。
この日曜日はゆっくりしようと思ってたのに〜〜〜。
でもこれは行かないとあかんのです。
それは何故か。
橿原市博物館が会館する記念で、
新沢126号墳出土・・・金製龍文方形板が東京の博物館から今回里帰りするんです。
橿原市千塚資料館にもレプリカはあったんですが、
実物は東京に行ってました。
この金製龍文方形板はガラス製品や垂下式金製耳飾と共に出土して、
その説明講演会を聞きに行った事が、私が古墳に興味を持つきっかけになったのです。
はっきりした時期はもう覚えていませんが、
先日亡くなった森浩一先生のお話を聞いた事ははっきり覚えています。
その分かりやすい話しぶり、そのお声を、今も覚えています。
又その内容をメモした藁半紙(確か会場の入り口で頂いた)も実家には今も残っているはずです。
入館したら、その時の金製龍文方形板が目の前にありました。
半世紀経っての再会ですね。
ガラス製の器、二点は今回里帰りしなかったようですが、
東京行ったおりにはいつか東京の博物館を訪問して再会してみたいです。
他には同じく里帰りした金製腕輪・銀製腕輪・金製指輪・銀製指輪・金製歩揺が展示されていました。
この日説明のために居られた方から
「千塚古墳は現在600基が確認されているが、
ここにお墓が築かれ始めた頃から築造の経過を考えたら、
仮に古墳築造が200年続いたとして年に600基なら年に3基が築かれると言うことでしょ、
そう考えたら600基で済むわけがなくて、
周辺の田畑が作られた時にどんどん破壊されて行って600基が残ったと考えた方が自然でしょ。
そうすると、南は貝吹山の裾野にある「真弓鑵子塚古墳 (まゆみかんすづか) 」や牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)の東西のラインを一辺として、北は橿原神宮の深田池古墳群を含む東西を一辺とする広い範囲全体が墓域じゃ無いですか」
と言われました。
そして千塚周辺の写真が置かれて居て、「この写真のすぐ南は牽牛子塚古墳でしょ、この北は深田池古墳群でしょ」と言われて、なるほどと納得しました。
これまでは、古墳がたくさん集まって築かれた千塚の地域だけを考えていましたが、
そんな狭い地域じゃなくて実はもっともっと広い範囲を考えないといけないですねえ。
ところでこの日のランチは牽牛子塚古墳の直ぐ近くにある「ことだま」さんで食べましたよ。
いつも予約で一杯なんですが、なんとか当日予約が取れて食べて来ましたよ〜〜〜。
最近はデング熱が話題になっているせいか入り口には蚊取り線香がありました。
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