佐世保事件は相変わらず、宮崎事件、酒鬼薔薇事件と全く変わらない受け止め方をされている。そのなかで私は注意深く情報を選り分けて、「徳勝もなみ」をモデルにした少女の骨組み、肉づけを行っている。
そんな私を見て、付き合いの浅いヒトたちは相変わらず、「加害者」を援護するのかと寝惚けたことを口走る。
今一度、過去日記「ボイジャーと時計じかけのオレンジ。」に目を通して頂きたい。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1915366337&owner_id=1640816
リアリストとしての加害者を追体験することで、現実そのものを見つめ直すという行為。そこに書く意味があるのだ。現代人が相変わらずヌルいドリーマーである限り、書くことで何度でも自省を繰り返さなければならない。
新作「夏の二人」の少女はそのまんま「ハンニバル」に登場しそうなキャラに設定される。彼女は幼い頃からたったひとつの現実が欲しかった。それは“開かれた身体”である。肋骨を観音扉のように開けば、腹部を十文字に切り裂けば、そこには内なる現実が横たわっている。血と内臓。そこには虚栄心も嘘偽りもない。
トマス・ハリスの小説「レッド・ドラゴン」に引用されたウィリアム・ブレイクの詩が彼女のために高らかに詠み上げられる。
残酷さは人間の心臓を、
嫉妬は人間の顔を、
恐怖は神聖な人間の姿を、
そして秘密は人間の衣服をつけているのだから。
人間の衣服は鍛えられた鉄、
人間の姿は烈火の火事場、
人間の顔は封じられた溶鉱炉、
人間の心臓は、その飢えた咽喉。
「経験の歌」
いつの日か私は私自身の身体を開いて、素晴らしい現実を手に入れるだろう。その時が来るまで、私はあんたたちの身体を開き続ける。夢見るな、血を流せ、はらわた垂らせ、骨晒せ・・・
少女は幼い頃から口を大きく開くのが好きだった。そのまま声なき悲鳴をあげるのはもっと好きだった。身体の一部を開くのは、現実への近道だということをよく知っていた。
そうやって少女の血みどろの求道を一気に描いていきたい。
そして、現代人に足りないのは、ズバリ、狂気に対する想像力である。
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