何回も言っていることだけれども、私は幽霊を見たことがある。しかし、幽霊を見るのは、気のせいだと思っている。それは、自分が周囲の影響で惑わされるという意味ではなく、私自身が幽霊を見てしまうほど、人間自体の「念」の力を思い知っているという意味である。
ここらへんは、ほんとうに説明するのが難しい。
私が生まれて初めて、幽霊を見たのは、七歳だったと記憶している。正確には「生霊」というやつで、母方の大伯母だった。彼女は私が生まれる前から頭をやられていて、しかも足萎えだった。それで奥の間にて寝たきりの生活をしていたのだが、私を異常なまでに可愛がっていて、私が来宅したことを知るや、寝床から玄関まで這いずって出迎えたくらいだった。
母方の本家に泊まった際は、従姉と二人で屋敷の二階の間に寝るのが常だったのだけれども、大伯母はその度に、汗びっしょり、白髪を振り乱し、ハアハアと荒い息を吐きながら、階段を這い上がってきて、私たちの寝床に侵入してきた。
三回繰り返して、もう体力的に限界なのか、ずっと寝床に伏せるようになって、やれやれ安心と思ったところへ、当時の私は真夜中に枕元にぬっと立っている大伯母を見た。
あの時の形相は忘れられない。
まるで、激しい感情が顔中から湯気をたてて流れ落ちているようだった。
立てないはずの大伯母が立っているということよりも、その異形のものが何回も同じことをぶつぶつ呟いていたことが、当時の私にはとても恐ろしく感じられた。
震える手で隣の従姉の腕を掴んで、ちぎれんばかりに揺さぶった。
大人たちは祈祷師という職業柄、赤の他人の幽霊は真面目に聞くくせに、身内の幽霊は誰もが上の空で聞いていた。
唯一、従姉だけは私の話をちゃんと聞いてくれた。
「それで?何て言ってたの?」
私は泣きじゃくりながら、こう言った。
「いつでも、思い出せる」
・・・・・・
大伯母の幽霊は、死んだ後も、私のところへやってきた。つまり、生霊が死霊になったわけである。
今度は、立ってはいなくて、生前のそれのように、這いずって現れて来た。
お通夜の晩に、そうやって現れてきたので、従姉はローソクに火をつけ、ボンナイフを持ち、私を連れて、そっと遺体が安置されてある奥の間に忍び込んだ。
顔の上に被せられた和紙をめくり、目が落ちくぼみ、唇も中へ陥没した死に顔を二人して凝視して・・・従姉がボンナイフで大伯母の額に大きく×印を刻んだ。死後硬直で硬くなった皮膚がゆっくりと裂け、凝固したまっ黒な血がどろっと滴ったのは今でも鮮やかに蘇える。
それは、大伯母の妄念に対する従姉なりの「念返し」のまじないだった。
それ以来、大伯母は現れなくなったのだが、ずっと後になって、青森は八戸にてイタコの老女と話していた時、非常に興味深いことを聞いた。
恨み、恋焦がれなど、とても激しい執着を相手にぶつけるために、要するに、化けて出るために、ちゃんとした「技術」としての念の込め方があるという。
それは、実際に、相手の顔、姿形、果ては匂いまで、いかに細かく思い出せるか。
また、相手のいるところまでを辿るのをいかに正確に思い出せるか。
これらがかっちりと、頭の中で何度も何度も、乱れることなく繰り返せれば、その念が、例え肉体や魂を離れても、この世に残るというのだ。
これを技術として応用すれば、いわゆる呪いとして、相手を攻撃することも可能だそうである。
老女は言う。
「一番重要な技術は、見せかけよりも、心がちゃんと形になることです」
・・・・・・
実に残念なことに、人間がその念を最大限に発揮出来るのは、形なき妄念である。だからこそ、霊の世界では、自分自身を制御する強い心が何よりも必要なのだが、弱い心のままでやたらと妄念をまき散らすのが今の世相そのものと言っても過言ではない。私は今では姿形のある幽霊を見る機会はあまりないが、何だかわけのわからない、定まることのない、ふわふわした幽霊としての、生きている生身の人間を見ることが多いのには、まったくもって閉口してしまう。
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