押見修造先生の「惡の華」が終わった。
想像していたものとは違う終わり方にしばらく悶々とさせられていたが、ようやく私のなかで決着がついた。
少女はいつまでも憶えているだろう。
少女はいつでも思い出すだろう。
少女はどこまでも醒めるだろう。
少女はどこでもざわめくだろう。
七十年代の青春マンガは上村一夫先生、宮谷一彦先生の絵がまず思い浮かぶ。他にもあるのだが、69年生まれの私の目にリアルタイムで映ったのはこの二人だけだった。
特に宮谷先生の作品の、セックスを終えた少女が少年の前でコーラを振って膣のなかで炭酸を噴出させるシーンは、幼少時の私には少年が言い放つ「興ざめ」どころではなかった。もちろんそれが避妊法、それも間違ったものであることは当時は知らなかったのだが、青春というものの苦味を直接味わったような、言い知れぬショックを受けた(その後少年はホモに走りパートナーとともに割腹自殺を遂げる)。
八十年代はポップを気取りつつ泥臭さから抜けられないみっともなさがあり、九十年代は空虚の時代が始まり、そして21世紀になって、少年少女は相変わらず懊悩煩悶し続けているのだが、孤独の質は大いに変化した。
「惡の華」は21世紀突入後の、我が国のまさに現代的な青春マンガの最高傑作である。
最終回の前は、春日くんの妄想(願望)が広がって、ハッピーエンドを思い描いた後、白紙のノートに鉛筆をあてがうシーンで終わっている。
従って。
最終回はタイトルの「われらが心を占めるのは」の通り、春日くんの仲村さんに対する「反芻」であったと見る。その証拠に、ラストのカラーへの転換までがぐちゃぐちゃの線で描かれている。春日くんはカラダでは常盤さんとの幸せな生活を夢想しながら、ココロでは仲村さんを何度も「反芻」するのである。
社会人になって、年をとって――
寺山修司が言うように過去が記憶の修正であるのなら、春日くんはいつの日か、ついに仲村さんを完全に理解するのだ。それがカラーになった意味だと思う。生粋のアウトサイダーである仲村さんの、第一話のやさぐれた視線とうってかわった、ラストの麗しい視線を見よ。
少年は少女と同じく、いつまでも憶えていて、いつでも思い出すのだ。
そして私は自分が「女性」と仮定して、相手と一緒に年老いて死ぬまで家庭生活を送るのと、相手の青春の思い出に強烈に焼きつけられるのと、どちらが望ましいかを考えてみる。答えはもちろんみなさんが想像する通りだ。
それゆえに、「惡の華」は最高の青春マンガなのだ。
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