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2014年05月06日19:05

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「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」を考える。

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http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=148866

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%82%8B%E6%98%9F%E3%82%84%E3%81%A4%E3%82%892_%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC

http://blog.livedoor.jp/annno60/archives/17972984.html

「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」を上野東宝で観た時、私は14歳だった。イチバン危ない年齢に後日問題作と言われる本作品を観たわけである。うる星は小学生の時からのつきあいで、家庭教師の先生が筒井作品をマンガにするとこんな感じだと紹介したことから興味を持ったのだった。ラムちゃんがどうとかではなく、世界観のスラップスティックぶりが私の好みに合っていた。幼稚園児の頃、チャップリン、バッグス・バニーを観て笑っていたあの感覚がうる星にあったわけで、私のイチバン好きな回はキツネの宇宙人夫婦があたるとその周囲に憑依しまくったおかげでわけのわからない人間関係が出来上がってしまった初期のハナシだ。それ以降のあたる、ラム、面堂、しのぶたちの個性が突出し始めてきた展開は苦手だった。マンネリ化する最大の理由だし、事実、惰性で突っ走った回もある。

当時を思い出すと、何とまあ、マジメにあたるとラム、面堂としのぶのカップリングが執拗にのぞまれてきたことか。成立してしまってはうる星ではなくなってしまうではないか。読者が自分自身の願望をマンガのキャラに押し付けるその行為がとてつもなく醜く思えたものだ。

でもファンのそういう病的な熱意に押し負けて、マンガもアニメもソッチ方面に傾いたきらいがあって、正直、後半のうる星は好きではなくなっていた。

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で、マンガもアニメもキモチイイくらいに裏切って、独自のうる星を打ち出したのが押井守監督の「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」であった。一緒に観に行った友人はアニメから入ってきたファンで、ラムちゃんラムちゃんと騒がしい男だった。観終わった後、私に「あれどう思う?面白かったなんて言わないだろうな?どうなんだ、えっ?」と必死に食い下がったあのカオは忘れられない。私は残酷に「面白かったよ、うん」と言い放ったものだから、友人は泣きながら私をおいて京成線でさっさと帰ってしまった。

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アニメ雑誌でラムちゃんがニッコリ笑って「ちょっと怖かったカナ?」などと弁明していたのが笑えたが、あちこちで独自の考察がなされ、原作派と援護派の仁義なき戦いが毎号展開されていたのには閉口した。私は援護派寄りではあったが、押井守監督へのリスペクトうんぬんではなく、ただ単に面白い切り口だったと満足していた。

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元になったマンガはコレである。夢邪気を劇場版のオリジナルとカンチガイしているファンが多いのはかえってのけぞってしまったが、ちゃんとしたマンガからのキャラだ。設定もほぼ同じ。それなのに押井作品はなぜ異質と言われなければならないのか。それはズバリ、後一歩でメタフィクションであることがバレそうなギリギリの線を渡っていたからである。今出演しているうる星が実はうる星ではないことにキャラ全員が気づくか気づかないかの瀬戸際。それゆえにムダにスルドイ錯乱坊(チェリー)が真っ先に消されたわけだ。
そもそも押井さんはメタフィクションについては独特の見解を持っている人で、アニメージュで連載していた「とどのつまり・・・」はマンガ作品として知られざる傑作だ。

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そして実はメタフィクションこそがスラップスティックの基本のひとつなのであって、チャップリンとバッグス・バニーが笑えるのは、彼らが自分を作品のなかのキャラだと自覚しているからである。それゆえに作品のなかで常識であるはずの世界が通用しない。キャラ自体が自由自在に駆け回って騒ぐ・・・ルイス・キャロルのアリスやスナーク狩りの奇妙な面々を思い起こしても、可笑しさの核は実はそこだということに気づくことだろう。

さらに押し進めて、高橋留美子先生ご自身も愛読していたという筒井康隆、うる星の世界観の元になったこの作家もやはりメタフィクションの人である。つまり、押井さんのビューティフル・ドリーマーは独自にうる星の原点に迫ったに過ぎないのだ。作品の概念まで丸裸にされて原作者としてはキモチイイはずがない。高橋先生が怒ったという真相は「掟破り」にあったことが推測されよう。

そして私がイチバンやられた、これぞメタフィクションであることの何よりの証拠!と唸ったシーンはラストシーンである。ラストに最初に持ってくるはずだったタイトルが唐突に現れ、テーマソングの「愛はブーメラン」が鳴り響いたのがそれだ。



こんなに素晴らしい演出はエヴァもまどマギも超えられていない。
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