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2013年01月16日19:37

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情死に漂うもの、映画「愛のコリーダ」。(再掲載)

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http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=227#2



大島渚監督が亡くなったというニュースが流れた次の日、私はもう一度映画「愛のコリーダ」を観返した。
小学生の頃聞いたのは、演技ではなく本番をしているという話題ばかりだったのだが、一人でこっそり観に行った祖父は大変感激、感動したらしく、「情死っていいものだなあ・・・」としばらく口癖のように言っていた。
オヤジも一人でこっそり観に行ったが、「あんなもん観るんじゃねえ」の一点張りだった。

だから、映画で阿部定事件を知ったという大人たちとは違って(祖父は事件の切り抜きをスクラップしていた)、中学生になってからやっと本で読み知り、リバイバルでようやく全貌を観たという遅い映画体験だった。

阿部定事件については以下のウィキを。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

祖父によると男の恋愛究極のかたちはふたつあるのだそうで、ひとつは、情死であり、もうひとつは恋心中。情死は一人でも出来るが、恋心中は二人でないと出来ない。定はその中間なんだ、と独自の解釈をしていた。

確かに観ていると、吉蔵の性癖に流された哀れな女性とも見える。

でも大島は本人はズバズバとした物言いをするくせに、映画表現においては「内に秘める」、控えめな撮り方をしていた。そこがジャパニーズ・アートとして世界に受け入れられたのかもしれない。

私は考える、大島の挑戦とは、心を脱いだ先の、ほんとうの人間の姿を描き切ることだった。セックスの呪縛にとらわれたまま荒んだ生活を送る男女を描いた「青春残酷物語」から、新撰組の男色関係を描いた「御法度」まで、大島の軌跡を辿っていくと、カメラという表現の物足りなさで喘ぐ大島自身の苛立ちが伝わり、彼がほんとうに求めてやまなかったものがおぼろげながら見えてくる。

控えめにならざるを得なかったのは、大島が映画監督だったからである。

そう考えながら、「愛のコリーダ」を観終わった後、私はあらためて深く感じ入った。定が吉蔵の首を絞め、ペニスを切り取った行為に、大島は明らかに自分の姿を重ね合わせていた。
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