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2011年10月27日20:43

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真・帝都物語1 土龍篇 序 叫魂

 昭和四十七年四月十六日の逗子は寒かった。人々は冬の匂いが残っているせいであろうと思っていたが、微かな鴉の啼き声を耳にした人に限っては、別の理由を思い浮かべていた。
 マリーナマンションの四一七号室にいた川端康成も、鴉の啼き声を耳にしていた。その産声にも似た声はひどく耳障りで不快だった。川端は顔を歪めて大きな溜息をつきながら、仕事机の方へ顔を回した。
 そこには睡眠薬の壜があった。ラベルにハイミナールとある。・・・いくら服用しても効果が現れなくなってしまった。先程も常人の倍以上服んだのだが、一向に眠くならない。瞼を擦ったり、蒲団に潜り込んだりしても、ますます冴えていくのだった・・・目も頭も。鴉の啼き声がまだ響いていた。
 そこで、川端はハッとした。先程よりもはっきりと聞こえるからだった。
 「アーッ、アーッ、アーッ」
 と、鴉の啼き声は川端の耳に潜り込むように響いている。その奇妙な快さ・・・川端は思わず目を閉じた。頭が痺れてくる。
 三島由紀夫。
 川端康成はその名を思い浮かべた時、発作を起こしたように嗚咽し始めた。顔を両手で覆い、身を震わせる。
 「アーッ、アーッ、アーッ」
 突如、川端は顔を天に向けて叫んだ。その叫び声は鴉に応えているかのような響きだった。

 眠りたい!

 乱暴に窓を開けた川端は、奇声を上げながら夜の海を凝視した。ざらついた潮風が赤くなった顔を撫でてゆく。鎌倉の海。
 「眠らせてくれェェェ!」
 川端の叫び声に、川端自身の記憶が感応して瞼の裏側に浮かび上がり出した。
 ぼやけた光の中の生首。
 目を固く閉じて、噛んだ舌先から血を流している。
 三島由紀夫!
 「川端康成だ・・・そこをどいてくれないか、三島君に会わせてくれ!一目でいいんだ・・・遺体を見せてくれ!・・・どけっ!!」灰色の空間へ自分が喚きながら走り出していくのが見える。・・・二年前の十一月二十五日の昼が生々しく蘇ってきた・・・全くもって目眩くような昼だった、太陽そのものが絶叫している昼だった。『三島由紀夫、自衛隊市ケ谷駐屯地東部方面総監室にて切腹!』の知らせを受けた時の“感触”も、市ケ谷へ向かう車の中で見た幻めいた東京の“感覚”も、最愛の弟子の変わり果てた姿を見た時の“感情”も蘇ってきた。
 ウオーオオオオッ!
 太陽。その中に「七生報國」という四文字が浮かび上がってきた。「静聴せい!」白鉢巻。「自衛隊にとって健軍の本義とは何だ・・・日本を守ること、日本を守ることとは何だ・・・日本を守ることとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることだ・・・」“楯の会”の制服。「・・・今の日本は経済的繁栄に現を抜かし、精神的に空っぽになっている。それが分かるか!政治は権力欲や偽善にのみ捧げられている。自衛隊こそが、日本の魂でなくてはならないのだ・・・」筋骨逞しい身体つき。「・・・よく聞け!聞け、聞け・・・静聴せい!魂を持っているのは自衛隊だけだと思っていた。武士の魂は何処へいったんだ・・・」三島由紀夫。「・・・男一匹が生命を賭けて諸君に訴えているんだぞ!・・・いいか、いいか!おれがだ、今日本人がだ、比処でもって立ち上がらなければ、自衛隊が立ち上がらなければ、憲法改正はないんだ!諸君は永久に救われんのだぞ!諸君は永久にだね、今の憲法は政治的謀略で、諸君が合憲のごとく装ってるが、自衛隊は違憲なんだ。自衛隊は違憲なんだ!おれは待ったんだ、四年待ったんだ・・・」バルコニー。「・・・どうして自分を否定する憲法を守るんだ、諸君はそれでも武士か!!ただ小さい根性ばかりに片足突っ込んで、日本のために立ち上がることはないのか。よし、武士というものはだ・・・刀とは何だ。今こそ我々は、生命以上の価値を諸君に見せてやる・・・」東部方面総監部。「・・・貴様たちは知らんのだ、憲法のために、日本を骨なしにした憲法に従っ てきたということを知らんのだ。諸君の中には一人でもおれと一緒に立つヤツはいないのか・・・一人もいないんだな・・・よし、おれは死ぬんだ、諸君が立ち上がらないことに見極めがついた、これで、おれは自衛隊に対する夢は無くなったんだ!それではここで天皇陛下万歳と叫ぶ・・・」太陽。「・・・天皇陛下、万歳、万歳、万歳!!」
 ぼやけた光の中から生首がゆっくりと見えてきた。精悍だった顔に死の笑みを浮かべている。しかしよく見てみると、その笑みは肉の内側にある“されこうべ”が浮かべていたものだった。
 “全く狂気の沙汰としか思えませんね”
 “全く無意味でしたね。もっと他に何か方法はなかったんでしょうか?”
 “全くナンセンスですよ、単なる自己満足ですね”
 「全く惜しい死だった・・・」弟子の自決についてコメントを求められた時、思わず呟いた言葉が、鳴り響いてきた世間の冷め切った声を打ち消す。その瞬間、川端は世の中に対して激しい憎悪を抱いた。「全く哀れなり!亡国の民よ!!」

 眠りたい・・・。
 三島の生首がカッと目を見開いた。異様なまでの生気を孕んだ目。川端は、その目が叫び声を上げているのを見た。
 そうだ、あの目を見てから、おれの不眠症は激しくなってきたのだ・・・こんなことがあった。東京都知事選挙に出馬した秦野章を応援していた時だった・・・連日の応援で疲れきってしまって、ホテルでマッサージを頼んでいて・・・  
 「ドアを誰かが叩いている」
 そう言った川端は、マッサージの手を止めさせてベッドを下り、ドアを開けた。そこには誰もいなかったが、川端は「おや、日蓮様ようこそ」と言って、ニコニコ笑いながらベッドに戻った。
 しばらくして「今度は洗面所の方で音がしますね」と言って、またベッドを下り、洗面所へ歩き寄った。同じように誰もいなかったが、川端は「あっ、三島君。君も応援にきてくれたのかね」と言った。すると、マッサージは悲鳴を上げて飛び出してしまった・・・。
 マッサージのやつめ、おれがおかしくなったと叫び回るのは勝手だが、おかしくなったからといって気味悪がることはないんだ・・・「ちょっと疲れたんですよ」と言ってその場を執り成したのはいいが、あいつは最後までおれのことを怖がっていた・・・。

 あの時、三島君は確かにきていたのだ・・・。

 窓を閉めた川端は、洗面所へいって顔を洗った。ひどい熱病にかかったのかと思われるくらい、顔が熱くなっ ていたのだ。タオルで顔を拭いている時、何か冷たいものが背筋を走り抜けた。足が震えてくる。
 視線を感じたのだ・・・それも鏡の中から!
 恐怖と好奇心が激しく戦う中、川端はタオルを顔から離していった。ゆっくりと・・・。
 青ざめた顔が目に入る。ギョロリとした目がタオルの上から覗いていた。縦縞のような白髪が後ろへ流れている頭。汗と水で濡れた額。七十二歳の川端康成の顔であった。じっとこちらを見ている。グレーの背広に黄色のポロシャツ。自分の格好を見て、川端は呻き声を漏らし、それから低く笑い出した。
 イヒヒヒ・・・。
 「先生」
 鏡の中から声がした。笑うのを止めた川端は、凄い目つきで鏡を睨みつけた。聞き覚えのある声。よく知っている男の声。可愛がっていた弟子の声。
 「三島君・・・!」
 その瞬間、鏡が白く輝き出した。思わず目を閉じる。瞼の中で、白い光が果てしなく広がっていくのを感じる。耳鳴りを伴った頭痛・・・。

 我に返った時、川端は自分が何かゴロゴロしたものの上に立っているのに気づいた。靴下が踏んでいるものは骨だった・・・それも頭蓋骨、“されこうべ”だった!ゆっくりと辺りを見回して、川端は叫び声を上げた。何とい う光景か!美しさと醜さが互いに叫び声を上げながら、頭の中へ飛び込んでくる光景だった!
 喘ぎながら川端は、自分を叩きつけてきた桜吹雪によろめいた。
 見渡す限り、桜と骨であった。満開の桜の群れが根を張った“されこうべ”の大地。その中を桜吹雪が舞っている。
 「先生」
 三島の声が響いた。
 遥か彼方から、何かがやってくるのが見えた。白いものだった。音もなく“されこうべ”の大地の上を駆けてくる。
 それが何なのか分かってきた川端は感嘆の声を上げた。馬だったのだ・・・雪のように真っ白な馬。
 「川端先生」
 馬に乗っている人間が呼びかけてきた。川端は目を凝らした。その人をぼやけたものが囲んでいて、男か女かも分からない有り様だったからだ。声は三島のものだったが。
 「三島君?」
 幻のように、馬上の人物の姿があらわになった。日の丸の上に“七生報國”と書かれた白鉢巻。“楯の会”の制服。そして日本刀。関孫六だった。三島由紀夫の姿がそこにあった。微笑みを浮かべている。
 「オオ・・・三島君!」
 突如、猛烈な桜吹雪が視界を遮った。叫び声を上げた川端は、白馬の所へ懸け寄って桜吹雪の猛威を躱した。桜の甘い匂いが鼻を櫟る。
 「平岡公威さんは比処にはいません」
 弱まった桜吹雪の中で、川端は馬上からの声が女の声に変わっていたのに驚いていた。顔を上げると、そこには経帷子を着た女の姿があった。
 「君は誰か?」
 女は微笑み、透き通るような声で囁いた。
 「辰宮雪子と申します。先生がご覧になり、お聞きになっていた平岡さんの名残は、先生ご自身の記憶が再現したものです。・・・平岡さんとは親しい者です」
 川端は辺りを見回し、溜息をついた。
 「三島・・・平岡君は何処にいる?」
 「何処にもいません。しかし、何処にでもいます」
 謎のような言葉だった。
 何を言っているのかという顔をしている川端に向かって、雪子は謎めいた笑みを投げかけ、凛とした声で言い放った。
 「平岡さんは日本の魂を守るため、帝都に取り憑いた魔物を滅ぼすため、東京に眠る平将門公の正体を暴くために自決して黄泉へ下りました」
 川端は呆然とした・・・何だと?魔物だって?それに将門だって?全てが混乱してきた。
 「魔物・・・その魔物とは何なのだ?」
 その問いに雪子は昏い表情を見せたが、意を決したように口を開いた。

 「加藤保憲!!」

 その瞬間、川端は白馬の上に乗って桜吹雪の中を疾走していた。風のような速さだった。雪子は声だけになって、川端の耳にくっついていた。「加藤保憲・・・龍人の呪いの末裔!」
 風のように桜と骨の中を疾り抜けながら、川端は果てに聳える巨大な桜を見ていた。他の桜と比べてその桜は、あまりにも巨大すぎた。異様なまでに美しい花を咲かせていて、奇怪に膨れ上がった根幹をあちこちに張り巡らせている。それにしても、何という桜なのか!

 「これは何だ・・・比処は何処なんだ?」
 風に乗って、雪子の声が響いた。
 「これが平将門公です!そして・・・ここは東京です!!」
 この言葉は衝撃だった。
 東京!!
 その時、白馬が激しく嘶き始めた。前足を高く上げたので、川端は必死で首にしがみつかなければならなかった。「加藤保憲!」
 雪子の叫び声。顔を上げると、桜の幹に一匹の蒼い龍が巻きついているのが目に入った。その龍は何とかして 桜を揺り動かそうとしているらしく、色々なことを試みていた。枝に咬みつく、幹を引っ掻く、尾で根元を叩く、身体全体で締め上げる・・・。しかし、どれもが空しい結果に終わった。単に数枚の花びらを枝から落とし、枝や幹に傷をつけたに過ぎない。
 「加藤保憲・・・あれが帝都に取り憑いた魔物か?」
 「そうです。日本の心臓である東京を壊滅させるために、明治の世より暗躍し続けている鬼です。百歳に近いですが、中国の秘術で三十歳ほどに若返り不老不死となりました。そして、現在は自衛隊の幹部として働きながら、密かに東京壊滅の機会を狙っています!」
 「何ということだ!」
 「加藤には、多くの人々の運命が弄ばれてきました。私は東京破壊の道具に使われ、平岡さんは東京に混乱を呼ぶための玩具にされました」

 関東大震災・・・二・二六事件・・・太平洋戦争・・・六十年安保騒乱・・・驚かれるかもしれませんが、これらの裏には東京壊滅の陰謀が隠されていたのです・・・。そして、いいように弄ばれた人たち・・・幸田露伴・・・寺田寅彦・・・黒田茂丸・・・北一輝・・・中島莞爾・・・甘粕正彦・・・大川周明・・・大谷光瑞・・・そして平岡公威・・・。

 上半身裸になった三島由紀夫が短刀を握り締めて、腹に押しつけているのが脳の中に踊り込んできた。呻いた 川端は、静かな感触のうちに愛弟子が絶叫しながら腹を割るのを見た。

 「加藤ォォォォォ!」

 血。首筋に叩き込まれる刀。彼の首が、神への供物として蛮刀で斬られる牛の首と重複する。三度、刀が振り上げられ、三島の首が胴体から離れた。
 「先生!」
 雪子の声。
 川端は、自分の顔に布が宛てがわれるのを感じた。目を開けると、ぼやけた白い空間に黒い線で描かれた星が浮かび上がっているのが見えた。川端はその紋を知っていた。
 “おや、三島君。なかなか洒落たハンカチを持ってるじゃないか。その模様は星かね?”
 “魔除けですよ。ドーマンセーマンというんです”
 “ほほう。何処の国の魔除けなのかね?”
 “日本ですよ!我が国にも古くからこういう魔除けがあるんだそうです・・・知り合いの女性が教えてくれました・・・”
 五芒星。ペンタグラムマ。魔除けの紋章。護符。

 「うおっ!!」転げ落ちた川端は、乱暴に布を取って投げ捨てる。それがヒラヒラと頭蓋骨の地面に落ちて、パッ と光り輝くと燃え出した。
 白馬の上の雪子。寂しい表情を浮かべながら、こちらへ五芒星の紋を染め抜いた白布を投げてきた。
 「あなたは平岡さんと同じ運命を辿るのです」
 再び、顔に布が覆い被さってきた。五芒星が川端の表情の動きや呼吸で蠢いている。
 「同じ運命?私は死ぬのか・・・自殺するのか?」

 三島の亡骸の隣で、割腹する森田必勝の姿が見える。腹にそんなに深く刃が潜り込まないうちに、彼の首は一刀で転がった。

 燃え上がる五芒星の中から、三島の顔がやってきた。「死してなお、この世に止どまるのです」「私とともに神霊となってこの世に止どまるのです」「この世に止どまるのです」・・・何のために?
 「東京を魔物の手から護るために」
 この祝福されたる東京を護るために・・・。

 いつの間にか、顔の布が消えていた。
 「ドーマンセーマンを額に持った先生は、神となって現世の東京を見守るのです」
 「永遠に、東京を見守るのです」
 「例え、東京という名が無くなっても、先生はその地に止どまるのです」
 「現世の東京が比処のようになっても、先生は永遠に止どまるのです」
 永遠に・・・。
 川端の眉間には、五芒星が赤く浮き上がっていた。
 「先生、またお会いしましょう」
 雪子が会釈した。すると、桜吹雪がドッと辺りに押し寄せ、川端を包み込んだ。

 眠りたい・・・。
 川端はウイスキーをがぶ飲みしながら、夢のような感覚だった異界での体験を思い出していた。
 桜の匂いがまだ鼻に残っている。
 目眩く運命が待ち受けている・・・加藤保憲とは一体何者か?雪子、あの白馬に乗った美しい女性は自分をいかなる道に連れ込もうとしているのか?三島は私に一体何をして欲しいのか?神となって永遠に東京を見守れとはどういうことなのか?

 記憶が恍惚とともにやってきた。東京が目の前に出現してきた。無数のビル群。縦横無尽に走る線路、道路、歩道。その中を行く無数の電車、車、人間。広がるスモッグの空。アスファルトとコンクリートの匂いが立ち込める中に、奇跡のようにたっぷりと水気を含んだ緑の匂いが流れている所がある。皇居だった。点在する公園や庭園も緑の匂いを放っているが、皇居ほどの濃さはない。
 皇居あっての東京だ、“帝都”なのだ・・・。

 川端はそっと涙を流した。東京帝国大学時代、本郷からいつも眺めていた皇居・・・周囲がどれほど変わろうと、皇居だけは変わらない・・・記憶がそのままの姿で常に存在し続けている・・・涙が溢れ続けた。

 「ああ、東京よ、私は汝を愛している。しかし、東京よ、汝は私を愛しているか?・・・東京よ、汝は全てを滅ぼす悪女なのか?それとも、全てを受け入れて愛でる聖女なのか?」

 蒲団を風呂場の隣にある洗面所まで引きずりながら、川端はぶつぶつ呟いていた。「東京よ、汝は一体何者なのか?」「何故そんなに滅びたがる?何故そんなに復活したがる?」記憶の中の東京が渦を巻いている。
 三島は市ケ谷で自決した。自分は少し離れた逗子で自決するが、魂は潮風に乗って東京へと流れていくだろう。そして、東京を見守らなければならない・・・。死して帝都を霊的に護るのだ。自分の中に奇妙な使命感が芽生えてきた。「三島君・・・」

 その使命感は何処から来るのかと自問してみる。三島由紀夫の師匠であるという意識?・・・それよりも深い所にあるのだろう?おまえは、私は、おれは・・・三島由紀 夫を、平岡公威を愛しているのだ。真っすぐな気性、純朴な性格。初めて会った時を思い出す・・・鎌倉文庫をやっていて「人間」を創刊した頃だ・・・学生服を着た初々しい青年・・・それが三島だった・・・『煙草』と『中世』の二つの作品を持ち込んできたあの様子は今でもはっきりと浮かんでくる・・・本当に初々しい奴だった・・・川端は微笑んだ。・・・土龍のような男だった・・・あいつは文学という地中を一心不乱に掘り続け、自分自身の中に潜む太陽を求めていた。しかし、現実という名の地上に出て天空の太陽を見ると、失明してしまったのだ・・・おれはあいつの土龍を愛していた。そういう運命が待ち受けていても掘り続けるその悲しさ。その空しさ。そういう所に人間の透明な温かさがあった・・・。
 しかし、まだ掘り続けていることを知ってしまった。死してなお、掘り続けているのだ。失明してしまっても掘り続けているのだ。一体、何故そんなにしてまで掘り続けるのか?おれはそいつを知りたい・・・全てを知りたいのだ。

 虚空に一人の自衛官が立っていた。陸上自衛隊の帽章が軍帽に輝いている。川端はその自衛官に違和感を感じた。・・・何処かが違うのだ。雰囲気か?成程、軍人としての雰囲気は申し分ないが、人間としての雰囲気は異様なものがあった。人間離れしているのだ。燃えるような 目・・・それでいて、不気味なほど冷たい光を放っている目・・・灰色の光が見え隠れする瞳・・・死の笑みを浮かべた唇・・・ぞっとするほど紫色に変色した薄い唇・・・痩せぎすで背が驚くほど高いが、筋骨逞しい身体つきをしている男・・・五芒星の紋を描き込んだ白手袋・・・これだった!違和感を感じさせる元はこの白手袋だった!!先程、辰宮雪子が自分の顔に向けて放ったあの紋様と同じもの・・・三島が“ドーマンセーマン”と呼んでいたもの・・・「おまえは誰だ?」

 男はこの世とは思えない笑みを浮かべたまま、こちらをじっと見つめていた。

 「おまえは誰だ?」もう一度言った。口の中がからからになって、すっかり声が掠れてしまっていた。ウイスキーの酔いはすっかり醒めていたが、身体の感触は麻痺してしまったかのようでピクリとも動かなかった。おれはまだ“向こう側”にいるのか?

 蒼い龍が見えた。

 「アアアア・・・お、おまえが・・・」川端は呻いた。男は相変わらず笑みを浮かべながら、こちらを見ている。「・・・加藤保憲!!」
 その瞬間、異様な雰囲気の自衛官は消えた。
 ウイスキーをもう一口飲みながら、蒲団の中に背広姿のまま入り込んだ。それから、脇にあるガスストーブのホースを本体から外し、口に銜え込んだ。ゴムの苦い味がする。唾液がたちまちのうちに苦汁と化したが、気にならなかった。
 鼻で深く呼吸する。空気がひんやりとしていた。本当にそうなのかは分からないが、お決まり通りに自分の過去を振り返ってみた。大阪。父、母、姉、祖母と順に死んでいって、祖父と二人暮らしをした日々・・・画家になりたかった少年時代・・・小説家になる決心・・・祖父が死んで、伯父に引き取られた悲しみの日・・・。

 思えば、おれの一生は悲しみの連続だった・・・。

 東京へ出てきた日。十九歳の時の伊豆への旅・・・これはおれの初恋・・・我が青春の最も素晴らしい時だった。東京帝国大学時代・・・鎌倉文庫の日々・・・休む間もないほどの文筆活動の日々・・・。

 おれの一生のうちで唯一美しいもので、痙攣的なものがあった。それは、三島由紀夫という存在に巡り会えたことだった。おれは、あいつに何が与えられるかということを師匠である自分に問いかけることで、もう一度あいつの人生を生きようとしたのだ。伊豆への旅の時のように充実した人生を・・・。
 だが、興奮や刺激に満ちた人生はまだ終わらない。三島の人生が終わっていないのを知ってしまったからには、おれも生きなければならない。死してなお、生きなければならないのだ・・・。

 「私は三島君の『楯の會』に親身な同情は持たなかつたが、三島君の死を思ひとどまらせるには、楯の會に近づき、そのなかにはいり、市ケ谷の自衛隊へも三島君についてゆくほどでなければならなかつたかと思ふ。三島君をうしなはぬためにはさうしてもよかつたと考へてみたりするやうな、それも後からの嘆きに過ぎぬ」

 いつまでたっても仕事場のマンションから帰ってくる気配がないので、心配して四一七号室までやってきた家人と管理人は、ガスが充満した部屋の中にガス管を銜え込んでいる川端康成を発見した。彼はグッスリと眠っているように死んでいた。
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