ドアを開け、運転手席に身体を滑り込ませる。この瞬間の充実感。ケツがクッションに吸いつき、背中と後頭部は座席の一部と化する。両手はステアリングと同化する。まるで、今まで片輪者だったのが、完全に五体そろったようだ。キーを差し込んで捻る。エンジンに火が入り、心地よい震動が身体中に広がっていく。計器が灯り、心臓の鼓動が力強く響き出す。この車は、イギリスのアストンマーチンDBSV8。ノーマルで軽く200キロ以上出すところを、ニトロを搭載したりして改造してあるから、350キロ近くが最高速度だ。今じゃ古い型の車だが、そんなことはどうだっていい。これが俺のマシーンだ。俺そのものだ。
俺の名はトバイアス。通り名は“マーチン・トビイ”。全州のハイウェイパトロール警官で誰一人として、知らないヤツはいないとまで言われた「走り屋」だ。ガキの頃はスピード狂で、二十代の頃は運び屋で、三十代の頃は走り屋で・・・現在に至る。
ゲームをやろうぜ。簡単なゲームだ。ゴールに向かってぶっ飛ばす俺を止められるかってやつさ。無事にゴールインしたら、俺の勝ち。しなかったらあんたの勝ち。どうだい、やるかい。賭け金?俺が負けた時は警察か政府が払うさ。それもあんたが欲しいだけな。俺が勝ったら・・・そうだな、何もいらねえ。だって、俺が勝つのは当たり前だものな。何か欲しがるのはフェアじゃねえ。やる?OK。スタートはここ、ロサンゼルス。ゴールはホワイトハウス。今晩24時がゲーム開始だ。楽しもうぜ、ニーナ。じゃ、またな。俺は腹ごしらえだ・・・。
ライヴハウス。ターゲットの娘が出てきた。アン・マクドウェル。大統領の姪っ子だ。最新のファッションでギンギンにキメ、ひいきのバンドと一緒に夜のロスを遊び回っているってわけだ。ニーナが提供した情報によると、セックスはやるけれども派手にはやらない。ナマでもやらない。慎ましく、回数控えめに、ゴムつけてってことさ・・・笑っちまうぜ。ヤクも健康を損なうほどはやらない。酒も煙草もだ。それでいて、いっぱしの不良ヅラをしてやがる・・・呆れたもんだ。唾をひっかける値打ちもねえが、今の俺には必要なブツだ。ツレと一緒に歩いていくアンに向かって声をかける。右手で車のキーをくるくる回しながら、「俺とドライブ楽しもうぜ、どうだい?」。案の定、ツレの黒人どもが「ふざけんな。さっさと消えろ、オヤジ」などときた。それでも、黒人どもをシカトして、「俺の車はアメリカで、いや、地球上で一番速いぜ」とやる。アンが振り向く。ガムをくっちゃくっちゃやりながらニヤついている。「ほんと?あたい、速いのダイスキよ。セックスは別だけどね」反応アリだ。黒人どもが迫ってくる。「オッサンよお、消えろってのが聞こえなかったのかよ?耳が遠くなるほどフケてんのか?」「こんな子供にモーションかけてんじゃねーよ、ロリコンオヤジ」「そこの角に淫売のババアが立ってるぜ、そっちで間に合わせな」なかなか親切で、迫力に欠ける三人だ。ラッパーを気取っちゃいるが、昔のストリートギャングどもの方が気合が入っていた・・・銃規制でオモチャを取り上げられた世代のこいつらときたら、まるっきり赤ん坊だ。俺は肩をすくめてみせ、それからキーを握った右拳で三人を叩きのめした。黒人といえども、ジャンクフードで育った世代は身体が弱い。相手にならねえ。アンを見る。興奮に目が潤んでいる。「ステキ。まるで映画みたい。あんたってイカスわ」俺はニヤリと笑う。
助手席にアンを入れ、エンジンに火を入れる。計器が灯り、夜を吸って真っ黒に輝くフロントガラスに俺とアンの顔を浮かび上がらせる。「すごーい!最新式じゃん。ウインドウ・ナビゲーターがついてるウ」とアン。計器の上に据えつけたナビゲーションシステム。フロントガラスの中に組み込まれたモニターにはロスの道路地図が蜘蛛の巣のように広がっている。下の方で赤く輝いている点は、現在地、つまりこの車ってことだ。「この曲知ってるかい?」一枚のCDをシフトレバーの上のオーディオシステムにセットする。再生。重く、スピード感ある鉄弦の音が響き渡る。「ハイウェイスターだ。ディープパープルの・・・」アンが笑う。「古ーい。でもイカすわ。あたい、ロックもダイスキだもん」「さあ、シートベルトしめて・・・ドアをロックして。OK。これを・・・」後ろからコードを引っ張り出して、クロームメッキのジャックをアンに手渡す。「そこのソケットにさして・・・そう、煙草に火をつけるやつの」ライターを抜いてソケットにジャックをさしこむアン。「これ、なあに?」「爆弾のスイッチだよ・・・しかも原爆だ」アクセルを踏みながら言う。「俺が自分で造った。ロシアの知り合いから買ったプルトニウムでな。ヒロシマ型の数十倍の威力がある。後部座席に積んであるよ」アンのポカンとした顔。俺はニヤリと笑いながら続ける。「この車が止まったり、エンジンが停止したら、即、爆発するようになっている。あんたは自分でスイッチを入れたのさ。アン・マクドウェル」アンが目をぱちくりさせる。「ど、どうして、あたいの名前を?」「大統領の姪っ子だってことも知ってるよ。あんたは俺の人質で・・・“重し”なんだ。高速でカーブを曲がるにちょうどいい“重し”さ」シフトレバーを徐々に上げていく。時計はゲーム開始まで5分前。「このままホワイトハウスまでぶっ飛ばす。最高のスリルが味わえるぜ。お嬢ちゃん」排気音とハイウェイスターがブレンドされて、ノリノリのインダストリアルロックを鳴らしてくる。突然、アンが悲鳴をあげた。しきりにシートベルトを外そうとする。無駄だ。外れないようになっている・・・俺のも。当然、ドアも開かないようになっている。外れないと分かると、アンはもう一度、悲鳴をあげた。長い尾を引くやつを。俺は携帯電話を取り上げ、ニーナの番号を呼んだ。「ハロー、ニーナ。スタートまですぐだぜ。いいかい。OK。俺を止められるものなら止めてみな」クックッという笑い声が流れ、ニーナ特有の甘ったるい声が流れてくる。「カミカゼを気取ってるようだけど、この勝負、あたしが勝つわ・・・“マーチン・トビイ”」俺は低く笑い声を立てた。「面白え。“ウェージマ(ロシアの若い魔女の意)”または“フィーンド(悪魔。悪鬼の意)”って呼ばれる殺し屋・・・狙った獲物は逃さねえハンターの腕前をみせてもらおうか」電話を切る。スピードメーターの針がだんだん勃起し、フロントガラスの視界がだんだん狭まってくる。アンはまだ悲鳴をあげ続けている。ハイウェイスター。排気音。誰も俺を止められはしない。気分が昂揚する。道路がぶっちぎりの速さで目の中を通り抜けていく。ワン・・・トゥ・・・スリ・・・GO!!
衛星が拾う情報。空間に張り巡らされたマトリックスの果てに、“ウェージマ”ことニーナ・パウロエウィチ・クイビシェフは立っている。金髪。真っ白な肌。黒い革ジャン、革パン、革ブーツ、革手袋。髪と顔を除けば、後は何もかも真っ黒け。悪魔のようなにやにや笑い。その上にかけられているミラーサングラスの奥には琥珀色の瞳。旧ソ連軍が開発した電子神経兵器を眼球と脳神経に組み込んだ将来の情報戦争を想定した元工作員だ。ソ連が崩壊する以前に、食いつめてマンハッタンに渡って、殺し屋を開業する。電子神経兵器による情報収集、ハッカー能力、電脳空間(サイバースペース)を自由に泳ぐ力、人間の脳神経も侵す力を持った恐るべき魔女に狙われた者はまず助からない。何故なら、この魔女はどこにもいないし、どこにでもいるからだ。魔女がフルフェイスヘルメットを被り、バイクに跨がるのが見える。バイクはヴィンセント・ブラックシャドウ1000。ノーマルで200キロ近く出す1940年代のエンジンを、現代風にアレンジしたり改造したりしているようだから、もっと速いし、足回りもいいだろう。このアメリカで麗しき英国のオールドマシーン同士で戦うのだ。
追跡衛星にもつなげてあるモニターからは、ニーナと傍らに立っているFBI長官の映像が流れ、二人の会話が聞こえてくる。「一体どうやって止めるってんだ。ヤツの車は止めたりしたら、爆発するんだぞ」「そんなこと言ったって、何とかしなけりゃあ、アイツはホワイトハウスで大統領の姪っ子と一緒に蒸発するんだ。辺り一面を巻き込んでね・・・いいのー、それで?」「そうだ、何とかしなけりゃならない。しかし、途中で止めたりなんかしたら・・・ヒロシマ以上の大惨事を生み出すことになる!!おまけに姪っ子は救えない。政府機関は無能だということで、あっという間に非難と抗議で潰されてしまうだろう。大統領の家族からの恨みというおまけつきでな」「それで?」「我々にはどうしても、姪っ子を無事に救出し、しかも、爆発させずに済ませる方法が思いつかん。こんなケースは初めてだ。おまえに思いつくというなら・・・是非頼む。政府として正式に依頼する。あの気違いを何とかしてくれ。報酬は・・・」「200万ドル」「分かった。協力出来ることはないか?」「アイツの行く先を絶対に封鎖しないこと。付近の住民の避難はしてもらってもいいけど。それから、あたしの近くに常に放射能処理班を待機させといてね。以上」「何だって!!やっぱり爆発するのか?」「影響は最小限に止めるよう努力するよ。そして、姪っ子は無事に助ける」「自信あるのか?」「あるよ。てめえの生命だけがカワイイあんたらとは違ってね・・・」モニターの映像が道路地図に変わった。もうすぐ砂漠だ。俺は片手で煙草を取り出し、火をつけた。香ばしい煙が喉の奥に染み渡る。うまい。何年ぶりだろう。煙草がこんなにもうまいと感じられたのは。アンを見る。すすり泣いている。俺は優しく声をかける。「ハイウェイスター、もう一度聞くかい?」アンは答えなかった。フロントガラスがコバルトブルーに輝き、眼前には蒼い砂漠地帯が広がっていく。真ん中に、地平線まで真っすぐ伸びたハイウェイ。俺はステアリングを握った片手に煙草を移し、大きく息を吸い込んで、歓喜の雄叫びをあげた。
オーディオシステムをラジオに切り換えると、耳障りなノイズとともに妙にしわがれたアナウンサーの声が飛び込んでくる。「・・・原爆を搭載した英国車は現在ラスベガスに向かって疾走中・・・犯人は大統領の姪のアン・マクドウェルさんを人質に乗せており・・・まだ何も要求は入ってきておりません・・・一体何が目的なのでしょうか・・・」要求なんてねえ。これはゲームなんだ。生命を賭けた遊びなんだ。「・・・道路付近の住民のみなさんは、速やかに、警察の指示に従って避難して下さい。なお、決して犯人を追跡したりするような、犯人に刺激を与えるような真似は止めて下さい・・・繰り返します」どこにでもアホな連中はいるもので、特にこのアメリカにはアクション映画の影響を受けてヒーローになろうとして自分をヒーローと思い込むヤツは腐るほどいる。アクション映画の悪影響はもはや社会問題だ。俺を追っかけてくるヤツはきっといるだろう。目立とう精神で。そいつにかかっちゃ、原爆なんざ問題じゃない。どうしようもない連中だ。そして、退屈な連中だ。そら、もうアホどもが現れたぜ。赤い点に向かって疾走する黄色い点が二つ。二台か。モニターの映像が追跡衛星の目に変わり、道路をクローズアップしていく。アメ車だ・・・シボレーコルベットとフォードムスタング。マシーンとしてはいい方だが、ドライバーの方はどうかな。ちょっと遊んでやるか。何たって、この先は・・・シフトレバーを二つばかり下げる。そこへ、バックミラーに映った二台がぐんぐん大きくなり、両脇に並んだ。アンの方はムスタング。俺の方はコルベットだ。コルベットの助手席からは、ヒゲづらの男が威嚇の表情とともに銃身を短く切り詰めた自動ライフルを突き出している。その銃口が俺の目には中の溝がハッキリ見えるほどに迫ってきている。アンの向こう側に目を走らせると、ドライバーが拳を突き出して中指をおっ立ててみせている。何かパクパク言ってるが、俺には理解出来た。“テメエは終わりだ。覚悟しな、この犯罪者ヤロー”・・・全くお笑い草だ。俺は踵でブレーキを押さえつつ、つま先でアクセルを調整し、ステアリングを大きく切った。内臓が強く引っ張られる感触。それからシフトレバーを上げ、アクセルを床まで踏み込む。崖に沿って大きく曲がりくねったカーブを、200キロから250キロの間で切ったのだ。こいつをやるにはF1レーサー並の腕がないとムリだ。それとマシーンに対する信頼とクソ度胸。内側を走っていたムスタングは急ブレーキをかけ、派手なスピンからアスファルトをえぐるように転げ回った。火がつき、爆発。外側を走っていたコルベットは曲がり切れず、そのまま崖へ飛び落ちていった。オーディオシステムの再生ボタンを押す。鳴り響くハイウェイスター。俺は後部座席の下に突っ込んだ紙袋からチョコレートバーを取り出し、アンに差し出した。アンは上の空で受け取った。俺はニヤリと笑って、自分の分をかじり始める。曲が余韻を残して終わると、アンが透明な声で囁きかけてきた。「全くバカな連中・・・他にすることがないのかしら?」「今の人間てのは、自分が何をやりたいのか、何も分かっちゃいないのがほとんどだ。人間は何でもやれる・・・ただ、選択権があるだけだ。俺はこいつを選んだ」俺はステアリングを叩いてみせる。「俺にはこいつしかねえ。この車が俺の全てだ。そして、自分の生き方を選んだ人間には、当然、死に方を選ぶ権利がある」俺はライターソケットにさしこまれたコードを撫でる。「俺はてめえで望んだ人生を生きてみせるぜ。何らかの形で妥協する生き方、そんなくだらねえ人生はゴメンだ」アンはすっかりおとなしくなって、憂鬱そうな表情を浮かべてチョコレートバーをかじり始めた。アンの中で何かが変わっていくのが感じられる・・・俺は再生ボタンを押した。このマシーンとともに疾走するハイウェイスター。ラスベガスは目の後ろ。
モニターから流れる映像と音声・・・「ヤツの車はガスがなくならないのか?もうとっくに限界をオーバーしてるぞ」限界はホワイトハウスに合わせてある。予備タンクをトランクや後部座席の一部に積んでいるのさ。それに、ガスをバカバカ食うアメ車と違って、英国車は燃費率が実にスマートだ・・・「やるねえ・・・“マーチン・トビイ”。久しぶりにゴツイのを味わえそうだよ」ニーナの声に合わせて、追跡衛星が魔女の姿を捕らえる。はるかケツの方を一直線に走ってくる。けっこう速いが、バイクと車じゃ差がありすぎる・・・何だってニーナは車を選ばなかったのだろう。「よお、ニーナ。おまえさんのお得意のハッカー攻撃も俺には通じねえぜ。ひとつ、びっくりするようなことを教えてやろう。インプットした道路を外れた場合でも爆発するようになってるんだ。だからして、俺の神経をいじくって車をどっかへ持ってこうなんてマネは出来ねえわけだ」溜め息。「参ったね。準備万端ってやつじゃん・・・でも、何かこう、燃えてくるよ。こっちは一発逆転を狙ってウズウズしてるんだ」俺は笑う。「楽しみにしてるぜ。ニーナ」道路地図に戻るモニター。アンはさっきから、チャンネルが変わるTVを見ているように自然にモニターへ目をやっている。パッパッと変わる画面てのは、確かに面白いし目に楽しい。だけど、俺にとっての画面は昔からフロントガラスだ。初めて車に乗った記憶の中で一番印象的なのは、当然、フロントガラスの中でスピード感とともに変わっていくランドスケープだ。フロントガラスを通して見る世界は、肉眼で見るそれとは全然違う。別世界で、異世界で、超現実的世界だ。これほどまでに、自分の心の奥底に肉迫する空間はない。フロントガラスの向こう側から自分自身が“神”と化してやってくるのだ。それはものすごく衝撃的で、セックスや麻薬よりも強烈的な快感を約束してくれる。
生きるってことは、練金術のようなものだと思う。意識がそのままのものではなく、文字どおり化学反応を起こし、変容していくのだ・・・アンが左手を伸ばし、俺の右足に触ってくる。「ねえ、あたいの話聞いてよ」俺は前を見ながら頷いた。「あたいねえ、ちっちゃい頃はおっきくなったら宇宙飛行士になるんだって思ってたの。そして、エイリアンと闘ったり、シュワルツェネッガーみたいなタフガイと恋愛したり、色んな冒険を夢見てたの・・・その頃やってた映画やTVに影響されてたのね。このコクピットに乗ってブンブン振り回されてたら、思い出しちゃったわ。いつから、こんなにもドキドキするような興奮を求めなくなっちゃったんだろう?もっと他に色々やり方はあったはずなのに、いつからライヴハウス巡りなんかで他人に気を使ったりなんかして、自分を大事にしなくなっちゃったんだろう?何で、必要以上に孤独や寂しさを恐れたりなんかしたんだろう?ああ、見てよ、このスピード・・・あんたの車のおかげで、あたいは子供の頃のあたいにやっつけられてしまったわ もうダメ」アンの目が潤み、涙が頬を流れる。「あたい、あんたと一緒に死んでもいいわ」泣きながら微笑するアン。俺はニヤリと笑ってみせた。前に目をやったまま、右手でアンの頭を撫でてやる。それからCDを再生する。今度はせつなく悲しげに聞こえるハイウェイスター。ラスベガスを通り抜け、ソルトレークシティに向かって疾走する。
震動。排気音。プラスティックとゴムと金属の匂い。そしてガラスの感触。五感が研ぎ澄まされ、車全体に神経が張り巡らされる。裸足でアスファルトの感触を味わうのと同じ感覚がタイヤを通して伝わってくる。ものすごく熱い。足の裏が焼けるようだ。エンジン音と心臓の鼓動が一つになる。ガキの頃、体育の授業でマラソンをやらされた時の感触が蘇ってくる。血の激流で心臓が張り裂けそうだ。原爆が破裂しなくても、スピードメーターの針がゼロになる時は俺が死ぬ時だ。そう、俺の名は“マーチン・トビイ”。車と一体化した「超男性」だ。「どんな気持ちだい、アン?」アンはフロントガラスを食い入るように見つめたまま、「最高よ。ドキドキする」と答える。俺はニヤリと笑う。「家に帰っても、この時の感覚を忘れるなよ。生きていく上でのいい経験になるはずだ」アンが俺の顔を見る。何を言ってるのか分からない表情だ。「だって・・・あたいはあんたと一緒にぶっ飛ぶんでしょ?どうして家に帰れるの?」俺は低い声で答える。「俺はおまえと心中する気はない。おまえはただの人質で重しだ。途中で、さっきの真っ黒けなカッコしたロシアのねえちゃんがおまえをここから連れ出すさ」「シートベルトは外れないわよ」「おまえが暴れるといけないんで、そういう風に細工したのさ。今となっちゃ、締めている理由もない。待ってな、外してやる」俺は片手でポケットナイフを取り出した。その瞬間、アンがものすごい形相で叫んだ。「いやよ!」腕や手でシートベルトをかばうように隠して、もう一度「いやよ!」と大きく叫んだ。「ひどいよ・・・そんなの勝手すぎる!あたいをこんな気持ちにさせといて・・・あたいはあんたと一緒にぶっ飛ぶのよ!」その時、視界に妙なものが映った。前方に、プラカードを掲げた青年が一人立っている。側にはビデオカメラを構えた牧師と数人の女の子たちがはしゃいでいる。プラカードには大きく手書きで、「私たちはあなたを愛しています。止まって下さい。あなたに神のお恵みを」と書かれてある。モニターからの音声。「頑張れ、ジョン。わしらがヤツを止めれば、わしらは一躍ヒーローだ」「頑張って、ジョン!TVに出られるのよ!!」「大丈夫だ、愛さえあれば、原爆だって爆発しないさ。それにわしらには神がついて下さっているよ」俺はアクセルを床まで踏みつけた。あっという間に迫ってくる青年の姿。凍りつく全員の恐怖の表情。特殊合金製の堅牢なバンパーが青年の身体を弾き飛ばし、彼らの愛とやらを蹴散らしてやった。アスファルトに散らばるバラバラになったプラカード。溜め息をつくアン。「イカレた連中だわ。あんた、あたいにあいつらのところへ戻れって言うの!?」「そうだ」「何でえ!?確かに、今までのあたいなら、何でもなかったに違いない・・・でも、もうダメよ!・・・この感覚を知ってしまったからには!あいつらと自分自身のアホさかげんを知ってしまったからには!あたいは今までのあたいとは違うわ。あたいは・・・このシートに根が生えちまったのよ!ケツからね!!どんなことしたって絶対に取れっこないわ!!」俺は肩をすくめてみせる。「普通のお嬢ちゃんなら、助けてって泣き喚いているとこだぜ・・・全く、変わり身の早いこと。生きたいと思わねえのか?」「思わない!あんなクソッタレどもとなあなあでやっていくつもりなんかないわ!」俺はもう一度ハイウェイスターをかけた。涙を浮かべて黙り込むアン。ブツブツ言ってる。「そう・・・出来っこないわ・・・この疾走する車ン中から、どうやって止めることなしにあたいを連れ出すっていうの・・・絶対出来っこないわ・・・このままあたいは一緒にぶっ飛ぶんだ」「あのニーナってやつはな、正真正銘の魔女なんだぜ。不可能もお得意の魔法で可能に変えちまうさ。まあ、実は俺も楽しみにしてるんだ。どんな手を使ってくるのかをな」これはまずかった。ガキだと思って、からかい気味にはぐらかすんじゃなかった。アンは一層ものすごい顔になって、えんえんとモノローグをやり出した。聞いているうちに、不思議なことに、アンの語り出す世界は俺の記憶と混ざり合って、フロントガラスの向こうに異様なランドスケープを作り出していった。それは目の中を通り抜けていく道路と同じく、目眩くようなスピード感に溢れていた・・・ふざけんな聞いてよあたいはあんたと一緒にぶっ飛びたいの何でかっていうとこのスピード感の中にいるあたいがほんとのあたい自身だって分かったから聞いてんのあたいは変わったのよそうよあのクソッタレなあたい自身からもうあたいはあたいじゃないあたいはほんとのあたいそうよ昔のあたいはまさしくクソッタレだったオギャアって生まれた時ママはくたばりパパはすぐオンナ作って再婚した(俺の家庭もそうだった)新しいママはあたいを愛してくれなかったパパも(全く俺の家庭もそうだった)そうあたいは愛されなかったあたいはただ生かされていた(俺もそうだった)全くそこらへんのペットと同じく食って寝るだけいやペット以下の生活だっただって可愛がってもらえなかったから(全く俺もそうだった)誰もあたいに興味を持たなかったそれであたいは何にも興味が持てなかったあたいはいないのと同じだった死んでるのと同じだった(何ということだ俺のガキの頃と同じだ)ちゃんと聞いてよそんなあたいに心を植えつけたのはTVと映画そして音楽興味ではなく環境があたいを作ったそれが今までのあたいとりあえずあたいはノルのが好きだったそしてファックするのもとりあえずそうやって生きていたあたいはほんとは何が一番好きなのか知らなかった知ろうとも思わなかったどうでもよかったしかしどこかにいるもう一人のあたいがあたいを捕まえようとやっつけようと追いかけてくるだんだんあたいはヘンになるあたいは叫びそうになるあたいは爆発しそうになるイエス、もう一人の俺自身は車そのものだった、イエス、もう一人のあたい自身はショックそのものだった、イエス、俺とあたい自身の中でもう一人の自分が生まれ出る、イエス、そいつさえありゃ興味も環境もクソクラエ、イエス、何かきっかけさえあれば俺とあたいはほんとの人間になれる、イエス、そしてきっかけは自分で作るしかない、イエス、目と心の中をものすごい速さで吹き抜けていく道路、イエス、クソッタレな過去を葬るために現在を燃料に見果てぬ未来に向かってぶっ飛ばす、イエス、自分の意志で自分の人生を設計するのだ、イエス、欲望の赴くままに、イエス、自分を台なしにしちゃいけない、イエス、欲望こそが全て、イエス、しかし全てがうまくいくわけじゃない、イエス、何かが起こる、イエス、何も起こらないかもしれない、イエス、しかし何かを起こすためにここまで来たのだ、イエス、何かが起こるはず、イエス、きっと何かが、イエス、もう一息、イエス、マシーンが止まるその時まで、イエス、走り続ける、絶叫、
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