mixiユーザー(id:250900)

2011年05月17日04:26

171 view

缺史(ケッシ)八代の天皇

 今日は仕事が休みになったので、これから奈良県御所(ゴセ)市の史跡巡りをして来るつもりです。
 御所市界隈は人皇第2代綏靖(スイゼイ)天皇〔位;581B.C.〜549B.C.〕・人皇第5代孝昭天皇〔位;475B.C.〜393B,C.〕・人皇第6代孝安天皇〔位;392B.C.〜291B,C.〕が都を置いた地とされていますので、これらの天皇を含む「缺史八代」の天皇について論じてみたいと思います。
 「缺史八代」とは、『古事記』『日本書紀』において、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇の事、あるいはその時代を指す用語です。
 通説では、缺史八代は全くのでっち上げであり、これらの天皇は存在しなかったとされています。
 確かに在位年代や寿命は荒唐無稽なものであり、兄弟相続が主流だった応神天皇以後の大和朝廷とは異なって全てが父子相続になっているなど不自然な点は多いですが、帝紀に記された都の位置や婚姻関係を見ると、天皇家の祖先の状況を示す史実が浮かび上がって来ます。
 初代天皇とされる神武天皇は熊野から北上して大和盆地に入り、畝傍(ウネビ)の地で即位しますが、記紀の記述を良く見ると、その支配領域は大和盆地最南部の飛鳥地方にしか及んでいない事が判ります。つまり、神武政権は日本列島全体の支配者どころか、大和盆地全体の支配者ですらない弱小地方政権に過ぎなかった訳です。
 中国では王朝の創始者が、マイナーな地方領主レヴェルだった先祖に遡って帝号を追贈する例が多いですが、同様に実在が確実視される人皇第10代崇神天皇の時に歴代遠祖に大王(オオキミ)号が追贈されたものと推定されます。ちなみに「天皇」の称号が使用され始めるのは早くても6世紀の事です。
 さて、記紀に拠ると人皇第4代懿徳(イトク)天皇までは、金剛葛城山系東麓の現在の御所市界隈に都を置いた綏靖天皇を除き、畝傍山周辺に都を置いていますが、第5代孝昭天皇と第6代孝安天皇は御所市界隈、第7代孝霊天皇は現在の田原本町、第8代孝元天皇は現在の橿原市、第9代開化天皇は現在の奈良市に都を置いています。
 つまり、孝元天皇の都を除くと、ジワジワと都の位置が大和盆地を北上して行ってる事が判り、大和盆地南端しか支配していなかった地方政権がジワジワ勢力を拡張し、開化天皇の代になって大和国統一に成功、崇神天皇の代になって「四道将軍」の派遣で一気に列島各地に支配力を及ぼすようになった史実が反映されていると思われるのです。
 そして、『魏志倭人伝』に登場する狗奴(クナ)国こそが天皇家の先祖の政権であり、「狗奴」とは「熊野」の事であろうとする説もあります。そう考えると、第7代孝霊天皇が邪馬台国の首都だった纒向(マキムク)の地を攻略し、第8代孝元天皇の時に邪馬台国側の反撃に遭ったものの、第9代開化天皇の代に大和国統一に成功したとの流れも推定する事が出来ます。ちなみに人皇第11代垂仁天皇は纒向珠城宮(マキムクノタマキノミヤ)を都としています。
 さて、天皇家の先祖の政権のターニングポイントとなったと思われるのが孝昭天皇の時代です。孝昭天皇は尾張連(オワリノムラジ)の娘である世襲足媛尊(ヨソタラシヒメノミコト)を后に迎え、その子孝安天皇が後を継いでいます。即ち、東国の尾張連と同盟する事で邪馬台国を南と東から挟撃する体制を整え、大和統一への道を開いたとも言えます。尾張連は後に崇神天皇や継体天皇の后も出しており、大和朝廷の外戚として重きを成した有力豪族です。
 また、金剛葛城山系東麓は、纒向と外港の難波を結ぶ大和川水運の補給路を脅かす事が出来る位置にあり、ここを首都とする事は、邪馬台国の首都纒向を孤立させる戦略に沿った動きだとも言えます。
 これらの仮説に立った場合、問題になってくるのが、卑弥呼の墓の可能性が高いと言われている箸墓に葬られたとされる孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲媛命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)の存在です。彼女が卑弥呼と同一人物だとするならば、邪馬台国の首都纒向を攻略した孝霊天皇が邪馬台国を傀儡政権化し、自分の娘を女王として送り込んだものの、倭迹迹日百襲媛命は旧勢力に取り込まれて実家と反目、彼女の弟である孝元天皇は再び大和盆地南端部へ後退を余儀なくされたと推定する事も出来ます。記紀に拠ると、倭迹迹日百襲媛命は三輪山の大物主神の妻となるものの夫の正体が蛇であることを知って驚き倒れこみ、箸が陰部に刺さって死んだとされていますが、これは卑弥呼が大和盆地南部を抑える狗奴国勢力によって暗殺された事を暗示しているのかも知れません。
 また『魏志倭人伝』で卑弥呼の死後暫らくして邪馬台国の女王となったとされる臺與(トヨ)は崇神天皇の皇女豊鍬入姫命(トヨスキイリビメノミコト)だとする説が有力です。彼女は天照大神を祭った笠縫邑(カサヌイムラ)即ち伊勢神宮の前身のシャーマンとなった人物ですが、纒向の地は笠縫邑の有力推定地です。つまり崇神天皇は父の代に滅ぼした邪馬台国の首都跡に天皇家の祖先を祀る事によって新政権の成立を列島各地の勢力に示したと考えられます。
 一方、対中国関係では邪馬台国と国交のあった魏との国交を維持するため、中国に対しては邪馬台国が存続していると見せかけ、豊鍬入姫命を女王という事にして遣使を行なったと考えられます。実際にはその時には魏は滅んで西晋の時代になっていたんですが…。

 以上、色々と妄想を書いてきましたが、缺史八代にはデッチ上げとして無視するには惜しいネタがいっぱいあるんですわ。

2 8

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2011年05月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031