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2010年12月15日23:53

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殺人鬼は人を殺す代わりに本を読む。(再掲載)

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姉さん。
ぼくは全財産を賭けて復讐を果たしました。とはいっても、討つべきやつを何人か討ちもらし、討たづもがなの者を何人か殺してしまひました。この点、残念であるのと同時に、罪なき子供まで銃の餌食としてしまったことに、良心の呵責を覚へています。しかし、それもいまはせんかたないこととあきらめ、すべての罪を背負ってあの世とやらへ参ります。
百年この方、一つの腕力沙汰もなかった村を壊滅させたことについて、後日人はぼくを気が狂っていたといふかもしれません。
しかしぼくは全くの正気です。
これだけはどうか信じて下さい。
思へば日暮谷は、江戸時代以来の深い闇にとざされた丑三つの村でした。
ぼくはその闇の支配人どもを斃すことによって、日暮谷の急速な再生を考へたのですが、それもことここに及んでみると、ぼくは壮大な空虚に挑み、壮大な自慰をしたやうに思へてなりません。ぼくがそんなことをしなくても、冬の草が枯れて春の草が芽を出すやうに、日暮谷は長い時間をかけてゆっくりと終はり、そしてまた、長い時間をかけてゆっくりと再生の芽をのばしたかもしれません。
それを思ふと、ぼくは二重の悔恨を覚へます。
今回のこの事件は、闇の村だったからこそ憎悪が火になり、闇の村だったからこそそれが燃え上がったやうに思へてなりません。もしぼくが、この息のつまるやうな日暮谷には住まづ、べつの土地に移り住んでいたら、こういう事件も起こさづすんだかもしれません。もしそうだとすれば、ぼくはやはり身の不運を呪はづには居られません。けれどももうそれも終はりです。
世が明けかかって来ました。
闇の村の住人は闇の村の住人らしく、せめて日の出ぬ闇のうちに消へて行きたいと思ひます。
短い縁のけふだいでしたが、姉さんぼくをどうか許して下さい。
ぼくの屍は野ざらしのままで結構です。
姉さんのご多幸をぼくは鬼になって守ります。

西村望 「丑三つの村」より引用


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

マンガや映画ではシリアルキラーの日本代表のごとく語られる津山事件の都井ではあるが、西村望の小説「丑三つの村」はあくまでも都井の人間性を描き、彼自身に降りかかった悲劇を語っている。それを活字で読むと、文学という手段の本来の役割をしみじみと感じずにはいられない。その点を私は子供たちに知ってもらいたく、犬神図書館の本は子供たちが文学に目覚めるきっかけになればと書架に並んでいるわけだ。

結局。

創価学会と自称良識派のPTA役員で構成された、犬神図書館調査団の調査結果は、煮え切らない態度に終わってしまった。
あくまでグレー。
その最大の理由は、書架にセックス、バイオレンスをうたう本が溢れているなか、さまざまな辞典、辞書、岩波文庫、講談社学術文庫、ブルーバックスなどのおかたい本が並び、机の上に翻訳途中の英語の原本(実は吸血鬼の物語で、子供向けではない内容である)が置かれていたからであった。
つまり、私はただのヘンタイではなく、ほんとうにたくさんの本を読んでいる読書家と認められたわけである。

一人が言うには、「ゲーテを読む人に悪い人はいない」のだそうだが、それを聞いて私は「若きウェルテルの悩み」がどんなに退屈かを説き、私の好きなゲーテはヘッセの「荒野のおおかみ」のなかだけだと突きつけてやろうかと思ったが、時間の無駄なので黙っていた。

私が創価学会をどれだけ嫌い、憎んでいるかを知っている調査団の面々は学会のことは一度も口に出さなかったが、学会の幹部の妻である中年女性だけはズケズケと「犬神図書館の子供たちに学会員はひとりもいないの?」と発言した。

それに私は歯をむき出して笑って凄みながら言ってやった。
「親が学会員だってえ子がいますね、親があまりにもクソなんで、私を親と思いたいってんで、そう接しています」

ともかく。
犬神図書館の子供たちは、マンガだけでなく、手当たり次第に活字も読んでいるわけで、知識の貯蓄は、自然と心を豊かに耕している。

極論だけれども、殺人鬼になるより、読書家であることを選んだ人間の方が、精神力の強さの点で安心出来ると確信している。
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