私が生まれたのは、1969年。同年生まれの者たちはアポロ11号の月面着陸をシンボルと仰ぐが、私がシンボルとして胸に刻みつけるのはベトナム戦争である。
まず母が左翼に傾倒し、その一環として反戦フォークに参加し、次にオヤジがバーのホステスを巡って米兵と血まみれの殴り合いをした背景には重く垂れ込めた雨雲のようにベトナム戦争が横たわっていて、その最中において二人は出会い、私はこの世に生を受けた。
ベトナム戦争ものを扱ったフィクションとの初遭遇は、開高健の「輝ける闇」だった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%9D%E3%81%91%E3%82%8B%E9%97%87
当時はまだ小学生だったので、いまいち理解出来なかったが、主人公(開高健本人)の母親がこっくりさんに夢中になって、空襲はいつ起こるかとか、配給の芋はどれくらい手に入るかとかを占っているのに、子供だった主人公は涙を流すほど激昂したというくだりが、私自身の生い立ちにそっくり重なるような気がして、胸がひどく痛んだ。
そして小学五年生の時に、コッポラの「地獄の黙示録」を新宿の映画館で観た。友人三人と一緒に観たのだが、帰り道はみんなパンフレットを握り締めて黙りこくったままで、誰も映画について口を開こうとしなかった。
多分、口を開いたところで、感想らしいことを言える精神状態じゃないと分かっていたからだろう。それほど、凄まじい狂気に満ちた“闇”に打ちのめされたのだ。
私は原作がジョゼフ・コンラッドの「闇の奥」と知ると、早速図書館で借りて読破した。
カーツの心の奥深くに潜むもの・・・
その果てにコッポラが魅力を感じたのは十分すぎるほど理解出来たが、コッポラが「地獄の黙示録」でやろうとしたのは、ジョゼフ・コンラッドへのオマージュなどではなく、彼自身がカーツになるためだったのだという憶測が浮かぶと私は慄然とした。
その憶測を裏付けたのが、今回観返した、「ハート・オブ・ダークネス」である。
ごらんになれば分かるように、コッポラのテンションの高さは終始、異常だ。それゆえに、マーロン・ブランドは「わざと」コッポラの意に反することをしでかしたようにしか思えない。
マーティン・シーン演じるウィラード大尉はマーロン演じるカーツ大佐を殺しに向かうが、舞台裏ではマーロン演じるウィラードがカーツそのものになったコッポラを追い詰めているように見えた。
絶叫するコッポラ。
冷ややかなマーロン。
この対決構図に、私は果てしないカタルシス、「地獄の黙示録」の真の醍醐味を感じる。
高校生の時に、私は「地獄の黙示録」のイメージで、開高健の「輝ける闇」の映画シナリオを書いた。ベトナム人民の迷信を打ち砕くのが目的で、神の魚が棲むとされる池に銃弾の雨を浴びせる「マジック・フィッシュ・ウォーター作戦」のくだりは、サーフィンをするために村を焼き払ったロバート・デュバル演じるキルゴア大佐のイメージそのものだったので、ほんとうに筆が乗った。
書いていて。
私もまた、カーツになりたがる私自身を発見し、狂気の果てを覗き込んだような心持ちになったけれど、そういう意味でも、「地獄の黙示録」は映画史上最も危険な作品だとあらためて思い知らされる。
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