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2010年11月18日18:30

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オーラル・コミュニケーションとフィジカル・コミュニケーション。

私の聴覚障害の程度は、両耳とも90デジベル前後で、いわゆる難聴であるけれども、補聴器をつければ聞き取り、日常会話は可能である。
障害手帳だと三級。

難聴の要因は蝸牛神経(聴覚神経)の剥離で、つなぎさえすれば治るのだが、当時はもちろん現在でも技術的に不可能であるため、剥がれたままの蝸牛で補聴器で増幅された音声を感じているわけだ。

聞こえない、聞こえにくいということは、自分の声も分からないということだから、当然、うまく喋れない。

それで幼少時の私は聾学校で会話訓練を積んだ。
イマドキの手話はまだなく、口話でうまく喋れるように、それこそ汗と涙を人一倍流して習得した。
口話は英語だとオーラル・コミュニケーションなのだが、このなかに“読唇”という特殊技術があり、こっちも血のにじむ思いをして身につけた。
唇の動きだけで何を言ってるのか理解するというもので、聾学校はそれなりの指導だったけれども、祖父がどこかから雇ってきた読唇術の専門家の指導は、まさにスパイか忍者の訓練そのものだった。
双眼鏡で向こう側のビルの屋上にいる人の唇を読んで何と言ってるかをメモさせて答え合わせをするとか、夜の森のなかで蛍光塗料を塗った唇を見て何と言ってるかを当てさせるとか、今ではとても考えられないような、常軌を逸脱するものばかりだった。
間違うと、鉄拳制裁。
ただでさえキツかった聾学校の訓練に加えて、もはややり過ぎでしかない自主トレ。
でも、そのおかげで、今の私がいるわけで、私は今でも遠く離れた人が何と言ってるのかを簡単に読み取ることが出来る。これだけでもメシを食っていける、そのために鍛えたのだと祖父は言っていた。

もうひとつ。

フィジカル・コミュニケーションというものがあるのだが、こちらは読唇術よりもっと特殊な技術で、全身で音声を感じる、読み取るというものだ。

過去日記でたびたび触れてきた、昔のでっかいスピーカーに取り囲まれて大音響を全身で受け止めて音感を磨いたという、あれである。

皮膚感覚が発達した人は、風を受けただけで色々なことが分かるというが、私の場合は補聴器を外した上、目隠し、耳栓をした状態で、相手の身体の一部に触れるだけで何と言ってるのか分かるようになった。骨伝導というわけではなく、皮膚に伝わる振動だけで分かってしまうのだ。

こちらはせっかく身につけたけれども、残念ながらメシを食うことに活かしきれていない。セックスには大いに役立つのだが。

思えば。聾学校で学んだのは、お互いの意思疎通が滞りなくはかれるような手段であり、家で学んだのは、こちらが一方的に相手の何から何まで、スミズミまで、丸裸にしてしまうほどの情報の引き出し方であった。

そんな子供だったから、変な子ではあるけれど、たくましい子になるのは自然な成り行きだった。

でも、昔も今も変わらない、生命維持の秘訣は、「自立」であって、一人でも生きていける力を身につけること。

そういう意味では、私の歩んできた生き方はあながち間違ってはいないと思う。

少なくとも、手話を聾唖者独自の文化だなどと閉じ籠もっている、心もカタワに成り下がった輩よりは。
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