http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=161719#2
「悪魔のいけにえ」はリアルタイムで観たのに、これはリアルタイムで観ていない。
その理由は、小学校のPTAで「鑑賞禁止令」が出て、わら半紙で子供はもちろん、大人も観てはいけないという、ウーマンリブと同じ、異様な熱気が渦を巻いていたせいである。
言い出しっぺは、後になって知ったのだが、敬虔なクリスチャンを自称する教育ママであった。
それで、私は中学に上がってから、家庭教師が通っている早稲田大学の学園祭の上映会で、16ミリというしょぼさで視聴覚室にて「エクソシスト」を初体験した。
16ミリとはいえ。
単なるホラー映画ではない、心に迫る何かがあり、感極まって涙を流したことをよく覚えている。
特に、カラス神父がリーガンのうちに、死んだ母の姿を見るシーンは、恐ろしいというより、ひたすら悲しかった。
原作を読んで、この映画はやっぱりホラーの皮をかぶった、深い人間のドラマなのだと確信した時は、世の中は“多重人格”という言葉が右往左往し、「エクソシスト」も多重人格の物語だと決めつけているのがいて、私は非常に不愉快な気持ちにさせられたものだ。
いかにも新しい発見をしたように浮かれていても、人間が二重にして多重なのは、神話の時代から広く知られていたことで、逆に人間が二重にして多重でなければ、夢を見ることはおろか、“倫理的な”考え方をするのも不可能であるといってもいいのだ。
このへんは実に多くの人と議論を闘わせたけれども、長くなるのでこれ以上は触れない。
でも思い返してみると・・・
「エクソシスト」はまさにショッキングな事件そのものであった。
私自身にとっても、小学校のPTAをヒステリックにさせただけあって、どんなすごい作品なんだろうと、色々想像力をたくましくした意味でも、強烈な存在感があった。
ちなみに、我が家では、母が一人でわざわざ新宿まで行って観てきたが、母の感想は、「まあ、Wさん(言い出しっぺ)がキーキー騒ぐだけのことはあるわね」の一言だけだった。
大きくなって色々分かってくると、当時の大人たちはショックに打ちのめされてしまって、その奥底に潜む深いドラマを読み取る余力が残っていなかったのだなと・・・
クラスメイトの一部は「エクソシスト」からいわゆるオカルトファンの派閥を作り、月刊「ムー」、月刊「トワイライトゾーン」を回し読みして、様々な魔術を実践するという失笑ものの活動をするようになり、私も誘われたが、心の底から悪魔の存在を信じていない上に、神も信じていないわけだから、笑って、わざわざ禁忌レベルの隠秘学を教えてあげてひんしゅくを買っていた。
彼らがやっていることは、要するに不思議なことに憧れるという子供っぽいアレであり、私がススメる血なまぐさいやり方には尻込みをするばかりであった。
しかし、私は思うのだ、今の子供たち、大人たちは、果たして心から血を流すだけのことを経験しているだろうか、と。
カラス神父のように苦悩、葛藤に心臓から血を流したことがあるだろうか?
「エクソシスト」の主人公は言うまでもなく、カラス神父である。
神への信仰心を失いかけた青年の、意識変容のドラマなのだ。
そして、キリスト教だけでなく、信仰を問わず、人間の心のなかにはレギオンが潜むのだという普遍的な恐怖の物語・・・
オカルト趣味のクラスメイトたち、ショックから立ち直れないままの大人たちを横目に、私は「エクソシスト」から自分自身との闘い方を学んだ。
私は子供たちに今でも「エクソシスト」を人生の手引きとして勧めているが、今の子供たち、大人たちに血の流し方が足りなければ、本作品を観て、カラス神父に感情移入すれば事足りると考えているからである。
ディレクターズ・カット版では、スパイダー・ウォークが話題になっていたけれども、私にとってはカラス神父の心情がより深く感じられたので、監督と原作者が描きたかったのはやはりそこだったかと再確認した。
そして。
正式な続編とされている「エクソシスト3」は、悪魔とともに投身自殺をしたはずのカラス神父が実は生きていたという衝撃的な物語なのだが、こちらはドラマというより、正統なホラー作品として恐怖そのものを主題にしている。
殺人鬼役のブラッド・ダーリフの怪演も楽しめて、非常に満足した。
以下はこれだけでトレーラー代わりになると思っている、あまりにも有名なシーンだ。
ログインしてコメントを確認・投稿する